とんがり帽子のアトリエ

こちらの作品は、読み始めて一話目で、設定の細かさや、登場人物の衣装や家々の描写の細かさに感心させられました。特に絵は丁寧に書き込まれた絵本のようで、ミュシャを連想させられました。

 

白浜鴎先生が書かれている「エニテヴィ」という天使と悪魔をコミカルに扱っている作品を読んでいても、表現の節々に、それっぽさを感じる時があるのですが、この方は、もともとルネッサンス期の宗教画とかが好きなのか、お勉強されていた方なのかもしれませんね。

 

登場人物の表情がとても豊かで、動きも多いので、読んでいて飽きません。特にキーフリー先生、恰好良すぎます。男が惚れます。

 

そして、何よりも、惹きつけられたのが、「魔法の設定」の細かさです。そもそも「魔法」「超能力」「幽霊」というのは、ある意味、伝家の宝刀、ファンタジー三種の神器なのではないかと私は思っております。

 

その理由は、「ファンタジーに無くてはならない要素である」という意味ではなく。

「物語の出来不出来は別にして、言葉自体に、説明なしで受け入れさせてしまう説得力がある」という意味です。

 

本来ならば、「魔法」「呪文」などの言葉を使ってしまえば、それだけでひとまずは通用してしまう剣と魔法の世界。この説得力のある言葉「魔法」の設定を、とても具体的に書いてあるところが読んでいて楽しいです。

 

逆に言えば、一言で通用してしまう程に知られた世界観であるだけに、そこを漫然と使わず、自分なりにどう作りこむかで、その物語と他の物語に差が生まれると言えてしまう点もあるのかもしれません。

 

この辺は、色々な捉え方があるので、かなり、人の好みに分かれる所なのでしょう。ちなみに、私は、こういう所をきちっと作りこんでいる、「魔法系」の物語には好感を抱いてしまいます。

 

また、この魔法の設定が、若干、SEのお仕事と中世ヨーロッパの職工を混ぜたような感じで、古式ゆかしい感じと、異国感、そして、現代の私達が読んだ時の想像しやすさが上手く混ざっていて、白浜鴎先生という方は、こういう面で、とてもセンスの冴えが際立つ方なんだなと思わされます。

 

お話の世界では、「魔法」は人の生活の中に、当たり前のように馴染んでおり、それこそトイレに魔法が使われていたり、夜中の道路の誘導灯代わりに魔法が使われています。私達の世界でいえば、電気?もしくは、インターネット?みたいな感じです。

 

一方で誰もが「魔法」の使い方を知っているかというと、それはまた別の話で、世の中は、魔法に対して「知らざる者」と「魔法使い」に分けられ、一般的には、「魔法使い」は生まれつき選ばれた才能のある人間にしかなれないという認識が広まっている世界です。

 

しかし、本当の所は、違ったのです。魔法は、やり方が分かり、道具さえ揃えば、誰でも使えてしまう技術だったのです。はるか昔、誰もが魔法を使えていた時代に、いくつもの大きな争いや大惨事を起こしてしまった事を教訓に、世界中の魔法使いは、魔法使いと一部の人間を除き、世界中の人々から魔法に関する記憶を消し、記憶を消された人間を「知らざる者」としました。

 

そして、大惨事を起こしそうな魔法、悲劇を生みそうな魔法を禁止魔法として封じます。また、魔法使いが魔法を行う際には、「知らざる者」に見られてはならないというきまりまでつくりました。

 

 

一見すると、大きな力を故意に独占しているようにしか見えない、まるでア〇リカが口にする「核拡散防止条約」のような成り行きです。現代でも、核兵器を破棄する国、作り続ける国、様々な国があり、まとまっているとは言い切れない状態が続いています。それは、魔法の世界も同じなのでしょう。過去に、大きな悲劇があったとはいえ、世界を相手にしたハッタリに無理が出ないわけがありません。

 

こういうやり方に対して反感を持つ魔法使いも存在していて、反対派の皆さんは、禁止魔法を広めよう、使わせようとします。そんな諍いの犠牲になり、二人ぐらしのお母さんと一緒に暮らせなくなってしまったのが、主人公の「ココちゃん」です。

 

しかし、「犠牲になった」とは言っても、別に、年がら年中、後悔したり、哀しんだりしているわけではありません。

 

「ココちゃん」は、お母さんにかけられた魔法を解く為に、「持たざる者」なのに、魔法使いの弟子となります。そして、「アトリエ」と呼ばれる魔法使いの家で住み込みをしながら勉強します。そこで色々な魔法使いや、魔法使いの弟子達と出会います。また、この「アトリエ」の雰囲気が、やはり、何処か中世ルネッサンス期の職工をモデルにしたような趣があって良いんですよね。

 

アトリエに入ったココは、母親がいなくなった不安と哀しさに耐えながらも、新しい世界に触れる慶びを感じながら成長してゆきます。さらに、主人公「ココちゃん」だけではなく、物語の中には子供達が出てきます。

 

彼らは、それぞれ違った課題というか生きにくさのような物を持っていて、それが魔法を勉強し、互いに影響しあう事で、少しずつ、でも確実に解決されてゆきます。日々成長してゆく彼らの姿は、見ていて、心が癒されます。綺麗なデザインや、設定を書き込まれた世界観も読みごたえがありますが、成長物語としのストーリーも、この作品の見どころと言えるでしょう。

 

物語はまだ完結してはおりませんが、作品の中にいくつもの伏線がはられていて、その回収に、主人公「ココちゃん達」の成長…。とても楽しみの多い作品です。

 

 

坂道のアポロン

原作者は小玉ユキ先生という方です。こちらの作品は、アニメ化も映画化もされた事のある作品ですね。私はアニメも映画も、見た事が無かったのですが、名前は聞いた事はあったので、今回、読んでみました。この作品自体は、別にファンタジーではないのですが、読んでいると、何故か不思議な夢の中にでもいるような妙な気持ちにさせられる所のある漫画です。

 

ふるい分けをすると音楽漫画、ジャズ漫画という区分けができるのでしょうが、ジャズの事を中心に据えているというよりも、ジャズを切掛けに出会った若者たちの人生を書き上げた作品という印象です。

 

しかも、その一人一人の話や、それぞれの間での気持ちの交錯が細かく書き込まれているんです。読んでいて切ないこと、切ない事…。なんで「坂道のアポロン」の登場人物たちは、こんなにも繊細で不器用で、どいつもこいつも相手に対して諦めるってことをしないんでしょうかね?なんか、どうしようもなくじれったくて、どうしようもなく応援したくなってしまうそんな人たちばかりの物語です。

 

物語は、西見君が九州の学校に転校してくる所から始まります。それらしいセリフによる説明はありませんのではっきりとは言えませんが、漫画の中にも、それらしい描写があり、小玉ユキ先生のご出身が長崎県という事からみて、恐らく、舞台が長崎県なのだと、私は勝手に思っています。

 

西見君は、家庭の事情で親戚のお家に住んでいます。自分の生い立ちや、置かれた状況をどう捉えていいのか、また、自分がこれからどう生きていいのかが分からいまま毎日を過ごしていました。そんな経緯もあってか、西見君には、読者の私から見て、若干、「世の中を斜に構えて見て、他人とも必要以上に距離をとってしまう」そんな印象を受けます。…っというか、このキャラ設定時点で、かなり私のポイントは高くなりました。私、教室の端っこの窓際の席で校庭を見ているような男の子キャラは、基本的には好きです。お陰で、冒頭から、難なく引き込まれてしまいました。

 

やがて、西見君は、クラスの中で危険人物と言われる川渕君と出会う事になります。勿論、同じクラスなので、何もしなくても出会う事になるのですが、単なるクラスメートというだけでは、なかなか、深く知り合うまでには行きにくかったりします。ましてや、川渕君は、クラス中から警戒されている子です。切掛けもなしに、仲良くなるというのも難しい話です。…と言う事で、ここで一悶着起こります。あえて何が起こるかは書きませんが、なかなかに、青年らしい、若く美しいエピソードです。

 

しかし、ここで問題が一つあります。西見君は、転校してきて恋をしてしまうのですが、その相手が、親友、川渕君の幼馴染という事になってしまいます。ここで一つ三角関係が生まれます。まぁ古来よりの純愛物でしたら、これで十分、ご飯三倍、終結5本前くらいまで引っ張られる所なのでしょうが、「坂道のアポロン」は、さらに恋敵が現れます。最終的には、何角関係まで広げるのだろうか、収束に向かえるのだとうかを心配される方もいらっしゃるかもしれませんが、広げた風呂敷は、最後にちゃんと回収されておりますので、その辺は心配には及ばないと思います。

 

もしかしたら、今までの私の説明を読んで、恋愛物を重点的に読まない人は、少し面倒くさそうな顔になるかもしれませんが、実際、読者側の意見からすると、それで「面倒くさくなる」「中だるみになる」という感覚は一切ありませんでした。むしろ、強く引き込まれたという気持ちの方が強かったです。

 

 

なによりも、感心してしまうのが、これだけ恋愛の角数を増やしておいて、登場人物を誰一人としてぞんざいに扱っていないという点です。一つ一つの恋愛を細かく、互いの気まずさ健気さを拾い上げ、それによって影響を受ける別の人間の「遣る瀬無さ」や「憤り」、また、それによって変わっていってしまう他の関係など丹念に描いてあります。

 

「一つの事を長々と書いてある場面が長い」と退屈するという見方はありますが、私は、必ずしも、全ての状況に、その原則が当てはまるとは思っておらず。むしろ、「書くべき事が書かれていない場面が長々と続いてゆく事は、読んでいて辛い」と置き換えてもよいのではないかと思っております。

 

人間は、基本的に他者との中で生きています。完全に独りぼっちで、誰とも接しない人間というのは、現実的ではないと、私は思っています。

 

逆に言えば、人をちゃんと描くという事が人の心の機微を丹念に描くという意味であるのならば、他者との関係、そこからの心と体の影響を地道に書いてゆくというのが、いわゆる「ちゃんと描く」という事になるのだと思います。

 

つまり、人を描く、物語を描くという事は、「関係」を描くという意味にもなると思うのです。逆に言えば、その人間の関係を描かずに、その人間を描く事は難しい事と言えるのではいでしょうか。

 

あくまで私の考え方で、大変、恐縮なのですが、関わりをちゃんと描かずに、物語が前に進んでしまうと、読んでいる事に違和感を抱いてしまいます。さらにそれが長々と続けられてしまうと、正直、「面倒くささ」「中だるみ感」というものを感じてしまうのも致し方ないかもしれません。

 

 

しかし、「坂道のアポロン」は、かなりしっかり登場人物たちの関わり方を描いていますので、「中だるみ」を感じたり「置いてきぼり感を感じて読むのが面倒くさくなる」というような印象を受ける事はありませんでした。むしろ、ネタバレになるといけないので、あまり登場人物の名前を出しませんが、どんどん感情移入してしまい、かなり切ない気持ちにさせられてしまう登場人物もいます。

 

また、感想文の最初の方でも書きましたが、作品の方を読んでいただければお分かりいただけると思うのですが、小玉ユキ先生の描写というのが、なんか白日夢でも見ているような、良い意味で淡い感じのする絵なんですよね。それが、ジャズを通して出会った少年、少女達の成長という、若い時代の淡い思い出という世界観と、とても重なっていて、とても良いのです。やはり、物語の雰囲気を強く把握できているのは、原作者という事になるんでしょうかね。

 

さらに、「坂道のアポロン」は、かなりラストが綺麗に終わっている作品だなと、私は思っています。やはり、いくつかの漫画を読んでいて思うんですけどラストを綺麗に終わらせるって、色々な意味で難しいんだなと思う時があります。

 

その色々な意味の中には、勿論、書き手の充分な実力という大前提は入っているのでしょうが、例え、書き手に充分な実力があったとしても、上手くラストが終われない作品を見かける事も事実です。その理由には、他に出版社の事情的な物もあるでしょうし、体調不良、社会的な影響、様々な物が関係してくるのだと思います。

 

そして、それだけに綺麗にラストを締めくくれた漫画というのは、とても恵まれた作品なのだと言って良いのだと、私は思います。そういった意味で、「坂道のアポロン」は、その内容の完成度の高さや、物語が醸し出している雰囲気といった物が、まっすぐラストに向かってゆく事ができた。多くの意味で、「恵まれた作品」と言ってもいいのではないでしょうか。

 

 

 

 

妻、小学生になる。

こちらの作品は、村田椰融という先生の作品ですが、私、あまりこの先生の作品を読んだ事ありません。っというより、失礼ながら「妻、小学生になる」で初めて、村田椰融先生のお名前を知りました。

 

あらすじは、亡くなった妻が十年ぶりに生まれ変わって家族の目の前に現れるという話です。ただ、亡くなってからすぐに生まれ変わったので、十歳の小学生になっていますよ。という話です。

 

私の浅薄な読書歴だと、蘇り物の多くが、故人が蘇って出会った所でラストだったり、そうでもなければ、数百年ぶりに巡り合って、お互いに前世で出会っていると把握して、なんかあれやこれやでキスして終わり、なんだったら、何か「化け物っぽい奴」と戦い始めちゃったり、そんなのが多い気がします。

 

ようは、生まれ変わる前や、生まれ変わったと自覚する前の話がメインにあったりする場合が多かったように記憶しています。勿論、「長い苦難をのりこえ、来世で結ばれなった二人が巡り合い…」それ自体で、感動的ですし、何度も使われてきたパターンなので、話も組み立てやすいという理由もあるのでしょう。

 

 

私も、離れた二人が巡り合えるよう願いながら、そういう物語を読んでおりましたが、読み終わった後に、ちょっとした疑問を感じずにはいられなかったんですよね。それは、「この人たち、このあとどうすんだ?」という疑問です。

 

物語というものが、エンターテーメントとして作られている以上、こうした疑問が野暮の極みと言われても仕方がないのですが、「再び、巡り合っても、現在の恋人がいたなら、後でしこりが残りそう…」とか、「前世とか、分かったら、後で気まずくなりそう…」とかそんな事を考えてしまいます。「妻、小学生になる」は、そんな疑問に焦点をあててくれた作品と言えるかもしれません。

 

主人公、新島貴恵は、ある日突然、前世の記憶が蘇り、過去の夫と娘の元を訪れます。そこで目の当たりにしたものは、自分の死後、10年の歳月を経ても、未だに、貴恵の死を受け入れられないでいる夫と娘の姿でした。

 

貴恵が現れた事で、夫と娘の生活はすこしずつ前むきになってゆきます。しかし、突然、起こった奇跡を、普通の社会で続ける事には様々な問題がありました。

 

蘇った貴恵は、10歳の少女に生まれ変わっており、現在は白石万理華という別の人間として生きています。10歳の少女が、大学生の娘がいる中年男の家に入り浸っていれば、それはもう怪しむなって方が無理です。

 

貴恵の方も、生まれ変わった現在の自分と、生まれ変わる前の新島家の自分との間で揺れ動く事が多くなります。

 

自分と一言に行っても、捉え方でいくつかの自分が存在します。一つ目が生命活動的な自分、二つ目は、自分が自分だと思う自分、三つ目は他人が捉えている「自分」。他にも色々な捉え方はあるのかもしれませんが、「妻、小学生になる」の貴恵というキャラクターの立場では、主に、この三つの「自分」が交錯しているように思えます。

 

まず、一つ目の生命活動的な「自分」は、貴恵の場合、十年前に消滅し、今は白石万理華の肉体として生存しています。二つ目の「自分」は、これまた難しく、一回消滅したものの、現在は、白石万理華という少女の「自分」と同時に存在しています。さらに、三つ目の「自分」、ようは、夫や娘、または、小学校の同級生、白石万理華の保護者が認識している彼女などです。この辺りを整理してみると、三つ目の「自分」に関しては、やはり気になるのは、恐ろしく、貴恵として、彼女の事を認識している他者が少ないという点です。

 

本来、健康的な状況だと、本人が意識している「自分」と、他者から認識されている「自分」というのは、完全とは言わないまでも、ある程度の近さがあってこそ、二つの自分の折り合いがとれるというものです。

 

それが、あまりにもかけ離れている場合は、よく聞く言葉ではあるのでしょうが「自我同一性拡散の危機」とも言えてしまうかもしれません。精神的には、良い環境とは言えないでしょう。本来、自我同一性とは、成長期は人生のステージでその都度、本人が悩みながら社会の中の自分と、自分が思う自分の間に折り合いをつけつつ獲得してゆくものです。

 

勿論、貴恵は、もう故人とは言っても、一度、成長し自我同一性を獲得し社会科された存在ですので、成長期の子供程、極端な影響は出にくいとは思いますが、忘れてならない事が一つあります。新島貴恵は、新島貴恵であると同時に、白石万理華という小学生だということです。そんな風に考えると、村田椰融先生が、この先の貴恵の変化をどのように描くのかが楽しみです。

 

また、一つの疑問が浮かびます。そんな過酷な状況に陥る事を、白石万理華という人格が何故受け入れたかという事です。「貴恵の家族を想う気持ちが奇跡を起こした」というのもありなのですが、貴恵の様子を見ていると、むしろ自分の死を乗り越えて欲しかったとまで言っているくらいなのですから、そういう分けではなさそうです。この答は、わりと簡単で、おそらく、過酷な状況であっても、「そうなる前の方が、万理華にとっては過酷だったから」なのだと思います。読み進めるうちに、万理華の家庭環境が描写されると、読んでいて暗くなりながらも納得できます。

 

そんな状況の中、新島家の中から、本気とも冗談ともとれない提案が出ます。「あと8年待って、白石万理華として夫と再び結婚する」という提案です。おそらく、白石万理華としての「自分」、新島貴恵としての「自分」を、そして、周りの他者からの見た時の「彼女達」それらを両立させる、一番、直接的な方法なのかもしれません。

 

同時に、その方法に無理がある事は、新島家全員が感じているのでしょう。しかし、そう決める事が、再び、大切な物を失ってしまうのではないかという不安から、逃れる事ができる方法だったのかもしれません。

 

読んでいる最初の内は、「8年後に結婚とか、おかしいだろう」と思いましたが、読み進める内に、妻が死んだ後の夫の焦燥ぶりややつれ方を見ていると、「そうする事のおかしさ」は感じているものの、「そうしない事の理由」が自分の中で曖昧になってきてしまい、どちらとも言えなくなってしまいます。「新島貴恵と白石万理華が、いかにして幸せになるか?」これこそが、この漫画のテーマだと私は勝手に思っていますので、ストーリーの経緯が、どこを終着点とするのかが、とても楽しみな作品だと思っております。

 

また、何度も書くようですが、貴恵を失った後の夫の崩れっぷりがなかなか凄いです。よく、後を追わなかったと褒めてあげたくなってしまいました。正直、妻を持つ身としては、読んでいて辛くなり、暫くの間、自分の奥さんに対して、いつもよりも1.5倍くらい優しくなりました。

 

 

ちなみに、奥さんに「妻、小学生になる」を見せ、いつものように暑苦しく語ってみた所、「逆で良かったね」という言葉をもらいました。

彼女が、何を言っているのか分からなかったので聞き返すと、

「タイトルだよ」と言われ、本のタイトルをもう一度、声に出して読みました。

「妻、小学生になる?」

「妻と小学生、逆にして見たら?」

「小学生、妻になる…、ああ、そりゃ駄目だ。捕まるわ」

「ね」

こんな何気ない会話が一緒に出来ることがやけに嬉しく思えました。

七つ屋志のぶの宝石匣

こちらは二ノ宮知子先生の作品です。

二ノ宮先生は、「のだめカンタービレ」が特に有名ですね。こちらの作品は、「のだめカンタービレ」の案を編集者に見せた際に、一緒に持って行った案の一つだったようです。その時は、「のだめカンタービレ」が連載される事になったようです。

 

「七つ屋志のぶの宝石匣」を読んでみると、プロの作家先生に対して、大変失礼な言い方なのですが、とても話の運び方が上手な方で、その上、下調べを細かくする方なんだなと感心しました。

 

「のだめカンタービレ」を読んだ時も、音楽業界事情や音大の話など詳しい方だなと思いましたが、「七つ屋志のぶの宝石匣」でも同じような印象を受けました。きっと、二ノ宮先生の作品の作り方自体が、とても取材や下調べを大切にするやり方なのだという事なのでしょう。

 

漫画のタイトルにも書かれている七つ屋というのは、江戸時代に使われた、質屋さんの隠語のような物らしいです。ちなみに、櫛屋さんは、94を足して、十三屋と読んだりしていたようです。江戸っ子は、こうした言葉遊びが大好きで、江戸文化の名残を思わせる言葉には、随所にこうした傾向が見られます。

 

また、質屋ではなく、あえて「七つ屋」という呼び方を使う事が、舞台である質屋さんが「江戸時代から続く質屋」という設定とも絡んでいるのでしょうが、なによりも、主人公の志のぶちゃんのキャラクターにとても似合っていて、しっくりきます。私の志のぶちゃんには、「質屋」よりも「七つ屋」が似合うという感想は、この漫画を読んだ多くの方に賛同していただけると思います。

 

物語の主人公は、江戸時代から続く質屋、倉田屋の孫娘、志のぶちゃんです。

彼女には、生まれる前から祖父に決められていた許嫁がいます。相手は、由緒正しいお家の北上顕定君です。

 

この顕定君、実は幼い頃に「倉田屋」に質草として預けられます。この時点で、かなり、「ギャグですか?」と聞き返したくなる経緯ですが、漫画を読んでいると、顕定君を預けた北上のお祖母様は真剣な事、この上ない様子です。

 

質草を預かっている期間が3か月だと、志のぶちゃんのお爺ちゃんが伝えると、顕定君のお祖母ちゃんは、必死の表情で「そこを何とか3年で!」普通なら、この時点でヤバい事が起きていると察知する筈なのです。なにせ、顕定君が質流れしたら、完全に人身売買ですからね。

 

しかし、色々な思惑が交錯し、契約成立!この辺の下りは、細かくは書きませんが、読んでいて面白かったので、まだ、読んでいない方は、是非、お確かめください。

 

そして、時は流れ、顕定君は28歳の若者となり、いつしか倉田屋を出て、真後ろのアパートに引っ越しました。ちなみに、お迎えは、まだ来ていません。そう、顕定君は、見事に質流れしてしまいました。

 

 

彼が「倉田屋」に質入れされた時、まだ、倉田屋には孫娘は生まれていませんでしたが、その後、無事、生まれた志のぶちゃんが顕定君の許嫁となりました。

 

ちなみに、顕定君、28歳。志のぶちゃん、よく中学生に見間違われる高校生。

 

子供の質入れと言い、高校生と大人の許嫁と言い、すったもんだがあったにしろ、児童福祉法的な奴は大丈夫なんでしょうか。

 

…でも、いいんです。

「漫画」ですから。

 

…それに、おもしろいし。

 

以上の一言で、全ての問題は解決できたと思います。

 

 

顕定君は、自分の家族がどうなったのかを探る為に調べ始めます。それも、志のぶちゃんには内緒で…、勿論、この辺りは、志のぶちゃんの安全を第一に考えての行動なのでしょうが、志のぶちゃんとしては、許嫁とは言われていても、全てを話してくれない顕定君に、壁を作られたような疎外感を感じてしまう時もあります。この辺のすれ違い具合は、私のラブコメセンサー的には「あり」です。

 

「七つ屋志のぶの宝石匣」の見どころは、顕定君と志のぶちゃんの、異様に進みの遅いラブコメというのもありますが、同じくらい面白いのが、顕定君の職場である宝石店や、志のぶちゃんの実家である質屋さんでのお客さんとのやり取りや、宝石鑑定の知識です。勿論、色々な品物がある質屋さんの中で、宝石がクローズアップされる理由も、ストーリー的にはちゃんとあるのですが、その辺は読む方がご自身で確認される方が良いと思います。

 

さらに、この志のぶちゃんは、「宝石の気を見る」という特殊能力があり、時折、占い希望のお客さんが質屋さんに来てしまう程です。しかし、一方、顕定君は有名宝石店の外商(店外の顧客まわりの営業ってところでしょうか)、その知識量や鑑定眼は同僚の中でも群を抜いています。志のぶちゃんの感覚的な鑑定眼と、顕定君の知識と経験に裏打ちされた、精巧な時計のような鑑定眼。二つの視点から、宝石という物を通して、見えてくる色々な人間ドラマが、とても面白いです。

 

また、志のぶちゃんと顕定君の組み合わせが、タイプが違うだけに、やたらとぶつかります。これがいいんですよ。

 

お互いがお互いの事を認めて、心配もしているのに、素直には交わらない距離感。「のだめカンタービレ」の時も、千秋君とのだめの距離感が面白くて読み進んでしまましたが、その時の距離感とは、また違った、独特の距離感です。

二ノ宮知子先生は、こういう独特の距離感を作るのが上手い作家さんなのでしょうね。

 

「七つ屋志のぶの宝石匣」自体が、まだ完結していない作品なので、あ~だ、こ~だ言うのも憚られますが、私は、買って読んで、損したとは欠片も思いませんでした。ラストが楽しみです。

 

サイレーン

菜々緒さんの主演でドラマになったサイレーンですが、聞いた話によると、ドラマと漫画だと登場人物の設定が少し違っているようですね。ドラマだとどうしても、役者さんのスケジュールなんかもあって、回数が決まっているから、上手く終了させるためには、色々、漫画と同じようにはいかないんでしょうね。

 

原作者の山崎紗也夏先生の作品は、「マイナス」と「マザールーシー」「しましま」くらいしか読んだことがないのですが、心に闇をかかえた人を描くのがとても上手くて、特に魅力的な女性キャラクターを生み出す方だと記憶しています。

 

山崎紗也夏先生の書くキャラクターは、いつも、最後まで謎を残しているように思えます。その謎が、「生きるとは何か?」「悪とは何か?」のような根源的な問いを投げかけてくれているようで、今まで読んだ作品は、全て綺麗に締めくくられているのですが、余韻とでも言うのでしょうか、良い意味での「後味の悪さ」が残る作品が多いなというのも、私が今まで読んだ山崎紗也夏先生の作品に共通して感じられる印象です。

 

 

今回の「サイレーン」は、猪熊夕貴と橘カラという二人の女性が主人公です。

やはり、読んでいて面白いのは、この二人の性格が、とても対照的でして、対照的すぎて、二人が何処か引き合ってしまうという点です。そして、二人の関係が近づくにつれ、物語が核心へと近づいてゆき、物語そのもののスピード感が増してゆくようで、読んでいる人間をひきつけます。また、猪熊と橘カラが引き合うのに呼応して、猪熊のまわりの人間や、橘の身近な人間も、事件の中に巻き込まれてゆきます。こうした過程での、物語の広がりや、登場人物同士のすれ違いなども、読んでいて楽しい点です。

 

猪熊さんとカラちゃんの関係を簡単に書くと、刑事と殺人者です。この辺のネタバレは、ドラマでも描かれていますし、物語の最初の方で判明しますので、読み進めてゆくのに、全く、支障はないと思いますので、ご容赦下さい。

 

物語の始まりは、風俗店で死体が発見される事で始まります。

警察は、関係者に昨夜のアリバイを聞くものの、店の従業員達は、全員、アリバイがはっきりしており、死体の携帯電話には遺書のような内容の文章が残されていました。

 

死体にも不審な所は見つけられず、警察の見識は、上司の判断で、自殺目的の急性アルコール中毒という見方で落ちつきます。

 

だが、現場を捜査する刑事の中に違和感を持ったものがいました。猪熊のパートナー里美です。里美は、事情聴取を受ける女性従業員の中に、見覚えのある顔を見つけます。

 

里美と猪熊は、事件が起きた時間、同僚たちとカラオケボックスで飲み会を開いていました。強かに酔いカラオケ店の廊下で寝ていた里美はが、目を醒まし立ち上がると、一人の綺麗な女性が里美の横を通り過ぎてゆきました。

 

その女性が、里美の目の前で事情聴取を受けている女性だったのです。女性は、里見達と同じカラオケボックスにいたにも関わらず、事件現場で警察から事情聴取を受けた時、「仕事が終わったらすぐに帰った」と警察には答えていました。

 

しかし、里美と猪熊は、「彼女の仕事柄、客との関係で店に知られたくない事でもあったのだろう」と考え、捜査上、大した影響はないと判断し、彼女への事情聴取をやり直すことはしませんでした。これが、猪熊と橘カラとの、最初の出会いです。

 

その後、カラちゃんは、猪熊を意識しながら、殺人を繰り返してゆきます。ただ、面白いのは、もともと、このカラちゃんの人殺しの動機が、憎しみや物欲だとか、そういう物ではない所なんですよね。金とか、恋愛とか分かりやすい動機なら、話も簡単なんですが、カラちゃんが殺す人を選ぶ基準は、「優しさ」や「正義感」といった内面部分で自分に持っていない物を持っている人。「ああ、凄いな、私には無いな…」と感心した相手だとの事です。

 

本来だったら、そういう相手に出会った時は、「私もこんな人になりたい」とか「友達になりたい」とか思うものなのでしょうが、カラちゃんの場合は、そこがちょっと違っているのです。

 

「この人は私に無い物を持っている」

⇒「羨ましい」

⇒「私はない」「喪失感」

⇒「自分に無くて、相手にあるのならば、相手を殺せば手に入る」

⇒「殺そう」

という思考回路のようでして、物語の中でのカラちゃんは、相手を殺すと、自分が羨ましいと思った部分が手に入ると思っているようでして、羨ましさや尊敬の念を感じる相手というのが、そのままカラちゃんの標的となるわけですね。ここが面白い所でして、「自分より優れた人間を抹殺すれば、全体的に自分の順位があがって、自分の方が優れた人間になる」とか理屈っぽい事は考えないんですよ、カラちゃんは…。

 

彼女にとっては、殺人は捕食に近い位置づけで、目的はあくまで相手と一体になり、取り込む事なんですよね。もしかしたら、彼女にとっては、精神的な特徴や美徳なんてものも、アミノ酸やら炭水化物なんかと同じ栄養素くらいにしか感じられていないのかもしれません。そして、猪熊夕貴の場合は、彼女の強い正義感が、カラちゃんを引きつけ、猪熊は命を狙われるようになってゆきます。正直言って、迷惑な話です。

 

さらに、裏を返せば、そのように素敵だなと感じてきた人は殺したくなってしまうので、カラちゃんと長く付き合えている人間というのは、本当に橋にも棒にもかからないというか、カラちゃんから見て魅力の欠片もない人ばかりという事になってしまいます。

 

方法は間違っていても、彼女なりに素晴らしい人間になろうと努力しているのだとも言えるわけなのですが、それにも関わらず、長く生きれば生きる程、まわりには魅力のない人間ばかりが集まり、自分は孤立してゆき、殺人のスキルだけが向上してゆくという何とも遣る瀬無い話です。

 

でも、いいんです。

カラちゃんは魅力あるから!

…漫画だしね。

 

しかし、この漫画の面白いのは、そこが到達地点ではない所です。猪熊と関わり、言葉を交わす内に、カラちゃんの中で、信仰にも近い、「自己実現の方法としての殺人」という思い込みが揺らぎ始めます。

 

カラちゃんの心の動き、誰とも共有できない衝動を持ちながらも、それを自分の中で理解しようとする辛さ、時に、自分と真っ向から向かい合う事がどんなに難しいかという事、様々な問題を孕みながら、物語は終焉へと向かいます。

 

カラちゃん、猪熊がどんな答えを出すのか、そもそも答えなんてものが存在するのか…。ドラマを見た方も、見なかった方も、是非、一度、ご自身の目でお確かめください。

 

 

 

 

 

 

 

 

プロフィール

manga2525

Author:manga2525
漫画、映画、アニメ、ドラマ大好きです。
すっかりメディアにはまり、きっと、その筋の業界の方には、
私はなかなか良いお客さんなのだと思います。
でも、いいんです。よくよく分かっている事ですので、…というわけで、一人でテレビや本みてほくそ笑んでいるのもなんなので、人前で語ってみようと思い始めたブログです。

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