夏の前日

こちらの作品、納得のできるエロさを持った作品です。

美大生の青木君と、画廊に勤める藍沢さんの恋愛を描いた作品です。

基本的には、SFでもファンタジーでもなく、日常を描いているので、そんなストーリーに起伏があるわけではないのですが、「おもしろい」です。

 

起こる出来事は、日常生活の事なのですが、美大生の青木君は、年代的には揺れ動く年齢だから、一見すると相も変らぬ日常でも、本人の心の中は、常に揺れ動いて大嵐です。一方、藍沢さんの方も、年上の女性として、いまいち素直に愛情を表現しきれないもどかしさをもっていますし、その辺を細かく表現できてしまうと、恋愛青春物は一大スペクタクルになってしまうという事なのでしょうね。

 

あと、これは冒頭の言葉にも通じるのですが、とても感心させられる点があって、「夏の前日」は、とてもセックスの描写を、上手く、効果的に…、そして、真面目に使っている作品なのだという印象を受けました。

 

 

作品の主題が「思春期」「恋愛」「芸術」という点にあるので、表現内容も性表現が多くなりますが、読んでいて、嫌悪感や違和感、奇をてらうような異常性を感じさせるような表現はありません。とても納得のゆく性表現なんですよね。

 

 

「夏の前日」という作品は、性表現の場面は多いのですが、所謂、性衝動を掻き立てるのが目的の性表現とは、対極にある表現といえます。

 

例えば、ある人がある店で、とても食事をおいしそうに食べている姿があるとして、その「おいしさ」というものは、その人の主観である以上、その場面の「おいしさ」というのを知る為には、やはり、その登場人物が、「何故、その食品が好きなのか?」「何故、その時にその食品を選んだのか?」「何故、その店に入ったのか?」「その人の年齢は?」「家族はいるのか?いないのか?」「家族がいるのなら、家族の中で、何を感じているのか?」「何故、家でご飯を食べないのか?」様々な何故を解きながら、食べている人を理解した上で、目にする食事のシーンと、食事のシーンだけを切り取った場面だと、全く、感じた方が違うと思うのです。

 

どんなに精巧に描かれたとしても、「その行為」だけを切り取った描写というのは、「読んでいる本人の投影」、もしくは、「不特定多数の一般的な行為」という域を出ないのではないでしょうか。

 

勿論、こうした手法により、その動作のみをクローズアップし、性欲なり、食欲なりを描き、読者の強い衝動を高めるというやり方はありますし、そうしたやり方による名作というのも沢山あります。

 

また、こうした目的で性行為、食事といった物を描く時、必要以上の緻密なストーリーや登場人物の背景といった物は、それ程、必要がないのかもしれません。…と、いうよりも、むしろ、読者自身が自分と勝手に重ねる事を考えれば、むしろ、そうした設定などは、少なければ少ない程、良いとさえ言えます。平たく言えば、知り合いや、親のセックスは、基本的には見たくなくなるという気持ちと近い心理作用なのかもしれません。

 

しかし、一方、人物の背景やストーリー、必然性を緻密に積み上げてゆく事で完成する表現というのも、性衝動を高めるという目的には蛇足であったとしても、描かれた人物に対する強い共感と、特別視を生み出すという目的にとっては欠かせない要素のひとつと言えるでしょう。「夏の前日」で描かれる性描写は、そういった意味で、登場人物と彼らが生きている世界を描くのに必要な、「納得できるエロさ」を持った物だと感じました。

 

「夏の前日」の性描写は、とてもプライベートな雰囲気で、耳元の息遣いが聞こえてきそうな程リアルさを感じられます。時には、セックスの描写は細かくても、登場人物の想いに共感して、性衝動よりも、痛ましさや、遣る瀬無さのような感情が沸き起こってしまう場面も多々あります。おそらく、これが、「その人間の性としてセックスを描く」事と「セックスを描くに、その人間を使う」作業の違いなのでしょう。

 

本来、セックスという行為自体が、その人間の背景、生活全般、性格、精神状態、相手との関係性といった物によって左右される行為であり、一回、一晩だけの相手というのなら別ですが、関係性を感じられない人間と毎日セックスをするという事は、男、女に関わらず苦痛なのではないかと思います。また、毎日、セックスをしていて、関係性を欠片も感じる事が出来ないというのも、非現実的な状況だと言えるでしょう。

 

現在、付き合っている恋人同士であっても、時がすぎ、考え方が変わり、互いのすれ違いが多くなれば、別れる事もあるでしょう。それは、恋人同士に限らず、夫婦にだって言える事です。しかし、お互いを求め会えている間は、別れの時がくるだなんて事は想像もできません。それだけに、誰かと、求めあえていられる時間というのは、とても短い、そして、とても恵まれた時間なのだと言えるでしょう。

 

 

「夏の前日」は、性描写を、そんな人間の心の揺れ動き、そして、貴重な青春の美しい時代を表現する手段として巧みに使っているのだなという感想を素直に受けます。だから、読み終わった後、二人は、どうなったのだろうと気になってしまいます。

 

しかし、この作品は、「夏の前日」で終わりではないのですね。「夏の前日」のその後を描いた「水の色 銀の月」という作品もあるのです。

 

実際は、原作者の吉田基巳先生は「夏の前日」の続編として書かれたわけではなく、「夏の前日」の方が「水の色 銀の月」のスピンオフなのですが、どちらも、共通して、性と恋愛に関して真面目に向き合っている作品です。

 

吉田先生は、1998年に「水の色 銀の月」で「わたせせいぞう賞」を受賞され、これがデビュー作となったようです。ちなみに、受賞作の段階では、タイトルは「水と銀」だったのですが、その後、連載が続くようになり「水の色 銀の月」へと改題されたようです。

 

青木君は、その後、「水の色 銀の月」という作品の中で華海ちゃんという彼女と付き合う事になります。時系列で言えば「夏の前日」は、華海ちゃんと付き合う前の彼女とのお話です。そして、それを考えながら読むと、かなり「夏の前日」は切ないです。さらに、反対に「夏の前日」読んでから「水の色 銀の月」を読むと、これまた切なくて、胸の奥が「きゅいんきゅいん」鳴りっぱなしになります。

 

考えてみれば、20年以上前に書いた作品の、登場人物の、さらにその背景を漫画で描くという行為をなさった吉田先生ですが、読者としては、我が身を振り返りつつ「よく思い出せるな…」と感心してしまいます。

 

また、吉田先生が年齢を重ねて深みが増した所為もあるんでしょうが、「夏の前日」は、かなり「深み、切なさ、ノスタルジィ増し増し」で運ばれてきます。おっさんの私は、色々思い出してしまい、数日間は後を引きました。

 

最近、心に「きゅいんきゅいん」が足りないなと思う方は、両方とも是非、読んでみて欲しい作品です。

 

 


YASHA

こちらは吉田秋生先生の作品です。

この方は、本当に名作といわれる作品を、世に送り出していますよね。

有名なところで言えば、「カルフォルニア物語」「バナナフィッシュ」や「吉祥天女」なんかも有名ですね。今回の「YASHA」は、先に挙げた三つに比べると、比較的最近の作品といえるでしょう。

 

ストーリーはサイエンスミステリーのジャンルにはいるのだと思います。

ちょこちょこ見どころなどを書きたいのですが、この作品が、驚く程、上手く書けていて、いくつも伏線を生み出しながら、話を展開させつづけてゆくんですが、終盤に従って、きれいに伏線を回収してゆくんですよ。

 

そのテンポが本当に「上手い」

例えて言うのならば、全く、つなぎ目が見つけられない寄せ木細工とでもいうのでしょうか。水に流されるように話が進み、ある程度の所までゆくと、進みながら、均等に伏線が溶けるように消えてゆくんですよ。

 

しばしば色々な作品で見られる、伏線を回収しよとした段階での突飛さというか、強引さというのが無いんですよね。主人公の心の動きや、それに伴う登場人物のリアクションの中で、しぜんと伏線が回収されてゆくんです。この技術は、現在、ストーリーテラーを目指す人も、一度、読んでおいた方が良いかもしれないなと、素直に感じました。

 

話が少し脱線してしまいましたが、上に書いたように、この物語のパーツが綺麗に連動しているので、ある場面の面白さを語ろうとすると、どうしても、他のストーリに触れなければならなくなる場合がでてきてしまうので、そんな事を繰り返していると、単なるネタバレサイトになりそうな気がして、ちょっと不安になってしまいます。

 

仕方がないので、これから読みたいという人の楽しみを奪わない範囲でご紹介してゆきたいと思います。

 

主人公の静は、沖縄で母親と二人で暮らす小学生です。静は、数か月に一度、定期的に病院で検査を受け、病気が発症したりしていないかを確認します。そして、健康体である事が分かると、そのまま沖縄に帰ってしまいます。

 

そして、島でお祭りがあった日、静の父親を思しき人間が島を訪れ、静を奪い返そうとします。もみ合うなかで、母が命を落とすことになり、結局、静は沖縄から出てゆく事になります。

 

それから数年後、静は、東京で、沖縄での幼馴染の十市に再会します。その時、静は18歳にして天才科学者となり、産業スパイから身柄を狙われ、ボディガードをつけられるような立場になっていました。静が日本に来たのも、所属している製薬会社から、日本の大学の研究所と業務提携として、研究の協力をするためというのが目的でした。

 

話が進むうちに、静は自分の生まれた背景を知り、大きな陰謀に巻き込まれてゆく事になります。そんな経緯の中で、悪性ウィルスが広まり、日本がスラム化してしまったりしてしまいます。そんな状況の中で、静は、どうやって、自分と友たちの命を守るのか…。

 

大事な所を省いて、大筋だけ話したので、かなり「とんでも話」に聞こえるんですけど、これが読んでみると、それぞれの設定のディテイルが綿密に組まれていて、登場人物の心の機微も細かく、さらに、本当に伏線が張られまくているので、ちょっと現実離れしたような設定でも、「ああ、あれはこういう意味だったのか」と納得できてしまうので、そのまま受け入れて引き込まれちゃうんですよね。さらに、最後が、本当に、きれいにまとめられているので、長い作品でも、読後感が凄くいいんですよ。

 

短編を書く場合は、計算して纏めるというのは、ある程度の技術があれば、そこそこ出来ると思うんですよ。短い分、設定が甘くても、読んでいる人が疑問を持つ前に物語が終わってしまったりもしますしね。

 

逆に、長編なんかを書く時は、人によってはダラダラを書き続けて、最後をまとめて終わらせちゃえば、読者からしたら、最初の方を、よく思い出せなくて、そのまま読了して、最後のシーンが気に入れば「良」となるなんて場合もあると思うんですよ。

 

でも、長編に耐えうる設定を作って、短編なみに登場人物を動かし、さらに、幾重にも散りばめられた伏線を、そつなく回収して、物語に破綻を起こさずに終結させるというのは、相当な技術と根気がなければ、できない事なんじゃないかなと思うんですよ。

 

同じ大風呂敷を広げても、単なる「ベタベタとんでも話」になるか「名作」になるかどうかの境目は、ストーリーテラーの腕と根気なのだなと思い知らされる作品です。興味のある方は、私が書いた「とんでも粗筋」が、作品になった時に、どれだけパワーにある「名作」になるのかを、是非、その目で確かめてください。


さらに、付け加えると、この作品に一環して流れているテーマの一つが、美青年に対する耽美のような気がします。


「YASHA」に限らず、また、対象が異性同性に関わらず、吉田秋生さんの作品は読んでいると、「人が誰かの美しさに惹かれていく」という現象を大事にしている気がします。たまに、他の漫画では「外見よりも中身を重視して云云かんぬん」なんて内容が書かれている事はありますが、吉田秋生先生の作品に関しては、そんな事はどこ吹く風、「美しくなければ、生きている意味なんかないんだ」という、名作「ハ〇ルの動く〇」のハウ〇の名セリフのような勢いで、登場人物の美しさを全面に押し出してきます。


考えてみれば、吉田秋生先生が特に活躍されていた頃は、確か、魔夜峰雄先生や山岸涼子先生の「日出ずる所の天使」なんかも連載されていたような気がします。(私のあやふやな記憶による認識です。ずれていたらごめんなさい)当時は、ボーイズラブという言葉こそありませんでしたが、その勢いは現在のボーイズラブに繋がる、まさに、BL黎明期といえる頃なのかもしれません。


そんな時代も関係しているのか、吉田秋生先生の個人的な好みなのか、作品のそこらかしこに美しい青年に対する溢れんばかりの愛情を感じます。作品を読んでいて、この人は、本当に、綺麗な男の子が好きなのだなと納得させられてしまいます。その辺に注目して見てみるのも、楽しいかもしれませんね。

 

最後に吉田秋生先生の絵の事なんですが、個人的に、どうしても疑問を感じてしまう事があって…。初期の作品「カルフォルニア物語」と、今回、ご紹介した「YASHA」なんですけれど、絵柄が変わりすぎなんですよね。

 

 

いや、もう、上達したとかそういうレベルじゃなくて、ほとんど別物みたいな変わり方です。「この期間に何があったんですか?吉田さん!」と聞いてみたい欲求にかられますが、「まぁ、日々成長してるって事なんだろうな」と一人納得して、矛を収めるついこのごろです。

 

 


町田君の世界

こちらの作品、見本の画像を見て頂けると分かると思うのですが、主人公はメガネ君です。

見るからに頭が良さそうです。しかし、哀しい事ですが、彼は勉強が苦手です。メガネをしているのに勉強ができないという、漫画界始まって以来こんな皮肉な十字架を背負わされたのは野比のび太か、この作品の主人公、町田君くらいのものでしょう。

 

実際、落ち着き払った態度を見ていると、漫画なので、下手をしたら博士号を持っていたり、〇ックスフォード大学とか卒業しているなんて凄い設定でもありそうな雰囲気は醸し出していますが、町田君には、一切、そういう現実離れした学力はありません。

 

さらに、勉強だけではなく、運動能力も、単純な体力も秀でた所はありません。彼の能力は、全てが人並みです。いや、むしろ、人並みより、ちょい劣ります。

 

そんなテストの点数や、体力測定ではちょい劣る町田君ですが、彼の事を嫌う人はいません。彼と接すると何故か人は、少し幸せな気分になり、そして、いつもより、少しだけ自分の事が好きになれるからです。

しかし、それは町田君が苦手な事が多すぎて、見ている人が優越感に浸れるとかそういう意味では、けっしてありません。

 

町田君は、勉強で良い点を取るよりも、スポーツで優秀な成績を収める事以上に、人間が好きなのです。他人が喜んでいる事がとても喜ばしく、他人が辛そうにしているのが、とてつもなく辛いのです。また、彼は人に親切にしようと思って、親切に接している分けではなく、「そうなのだから」「そうしている」ただそれだけの理由しかありません。そして、その事が尚更に、町田君のまわりに人を集めるのです。

 

でも、こんないい人なので、結構、勘違いしてしまう女の子はいます。わりとそんな風に、辺りかまわず親切にして、女の子はその気になっても、町田君自体は全く気付かないので、女の子は、余計振り回されます。「他人の気持ちには繊細でも、自分に対する好意にだけは鈍感」という古典ラブコメには無くてはならない人材です。

町田君本人は、「自分の事を好きになる異性はいない」という大前提の中で、全ての思考を進めているので、女の子が、かなり分かりやすい意思表示をしたとしても、毛ほどにも気づきません。それどころか「自分に得意な事なんてあるのか?」と悩んでいます。

 

正直、ちょっと腹が立ってきます。

 

「すべての人が笑顔であって欲しい」

そんな事を本気で考えてしまえ、かつ、身近な人間が違和感なく受け入れてしまう…。

恋愛話を聞いても、「俺は恋ってしたことあるのかな?」などと言ってしまう…。

町田君とはそういう男の子なのです。

 

 

しかし、そんな町田君の気持ちに変化があらわれます。

「誰かに幸になって欲しい」「誰かに笑顔になって欲しい」と思うばかりだった町田君が、「○○が欲しい」「自分がよく思われたい」と思い始めます。

 

生まれて初めて感じる恋に対する動揺。

身体の中から、生まれてくる、他の誰かを挟まない自分と相手だけの気持ち。

少しずつ変わってゆく町田君。

でも、やっぱり、町田君は町田君だと読んでいる私達が安心してしまう。

この漫画を最後まで読み終え、気が付くと、なんだか、私も町田君が好きになっていました。これは、そういう物語なのだと思います。

 

 

 

 

 


まんがで読破シリーズ 「ドグラ・マグラ」

イーストブレスと言う会社が出している「まんがで読破」と言うシリーズの中の一冊です。こちらの「まんがで読破」シリーズ、結構、面白いんですよね。基本的に、私、ものぐさなので一回小説などで読むと、後は、再び漫画で読むなんて面倒くさいなと思う方なのですが、こちらのシリーズは読んだ事のある作品でも、つい読んでしまいます。

 

…というのも、名作のコミカライズって、今まで、沢山行われてきましたが、小説以上に面白いと思った事がないんですよね。誰もが知っている名作を題材にしているという事もあってか、大概の作品が、あらすじを無難にたどり、名作のイメージを逸脱しないようにしすぎて、漫画としての面白さが感じられないというのが、私の今までの名作コミカライズへの感想でした。

 

しかし、こちらの「まんがで読破」シリーズは、ちょっと違っていて、本筋から外れはしないものの、その範囲内で「面白さ」を魅せようと頑張ってくれている気がします。実際、小説のキャラクターに関しても、文章だけで読むとは、また、違った印象を受けます。考えてみれば、原作と作画が違う漫画で面白い物なんて山ほどあります。だからといって、漫画家の手腕が、全く関係ないなんて事はなく、やはり、原作に書かれていない部分は、漫画家の力による所が大きく、また、しっかりと練られた原作は漫画やドラマにしても面白いと思います。

 

「昔の優れた新作が、古典として残るのだ」という言葉を何処かで聞いた事があります。こんなにも長く残った小説が、面白い漫画原作となり得るのは、ごく自然な事のような気がします。そう考えると、名作という名の神棚から降ろせば、名作は、いくらでも面白くなる可能性を秘めている作品なのだとも言えます。そういった意味では、「まんがで読破」シリーズは、名作の面白さの可能性を、ちゃんと掘り下げているシリーズなのではないかと思います。(当たりはずれは、ありますけどね)

 

また、このシリーズはコミカライズに選ぶ本の選択が、なかなか乙なんですよね。普通は名作のコミカライズというと、「坊ちゃん」とか「こころ」あたりを選びたいですよね。勿論、その辺も網羅してはいるんですけど。他にも西田幾太郎の「善の研究」戦国物によく出てくる宣教師ルイス=フロイスの「フロイスの日本史」九鬼周造の「いきの構造」、「おいおい、これまでコミカライズするのかよ!」と言いたくなるような、高校時代の倫理の教科書に言葉だけ並べられていたような本までコミカライズしています。確かにどれもこれも名著ばかりですが、けっして感動を呼ぶ為に書かれた物でもなければ、人を楽しませる為に書かれた物でもありません。こうなると、面白い原作を選ぶというよりも、「どんな原作でも面白くしてやる」という逆転の発想的な気概を感じざるを得ません。そんなこんなで、わりとこのシリーズは読んじゃうんですよ。ちなみに、この「まんがで読破」シリーズですが、月一回のペースで新作を出しているそうです。

 

 

さて、その中でも私が気に入ったのは、「ドグラ・マグラ」という作品です。この作品がコミカライズの棚に並んでいるのを見つけた時は、つい、即買いしてしまいました。

 

こちらの「ドグラ・マグラ」は、一部のファンの中ではかなり有名でして、誰がカウントしたのかは知りませんが、一応、「日本三大奇書」の中に数えられおり、特に「ドグラ・マグラ」「読み終わった人は、数時間に一度は精神に異常をきたします」と出版時のキャッチコピーに書かれていた事が有名ですね。私も若いころ、「ドグラ・マグラ」の小説も、松本俊夫監督の映画も見ましたが、特に頭がおかしくなるという事はなく、普通に小説版も映画版も楽しめたと思っております。

 

ちなみに、日本三大奇書の他の二作品は、小栗虫太郎先生の「黒死館殺人事件」と中井英夫先生の「虚無への供物」です。何れも、探偵推理小説です。また、どちらも私は読んだ事はありませんが、「黒死館殺人事件」は「まんがで読破」シリーズからコミカライズされています。よく勘違いされる事がありますが、日本三大奇書に「家畜人ヤプー」は入っていません。こちらの称号は「戦後最大の奇書」だそうです。どれもこれも当時のキャッチコピーみたいなものだったんでしょうね。

 

 

未だにに根強いファンの多い、夢野久作先生の「ドグラ・マグラ」ですが、漫画ではかなり分かりやすくなっています。「ドグラ・マグラ」が読解が困難であると言われた理由の一つに、その物語の構成の複雑さと、場面転換の多さがあげられます。基本的には、主人公は、物語の冒頭の舞台である九州大学病院の精神科病棟からは動いてはいないのですが、登場人物のやり取りの中で、一か月前の大学、突然回想シーンに出てきた登場人物の生家がある福岡県の田舎、唐の玄宗皇帝の時代と場面が転換します。結構、この転換の仕方が、小説ではわりと急なのですが、けっして論理的には崩壊していないという絶妙な匙加減の構成になっています。おそらく、あれだけ複雑な構成を成立させ、なお名作として読者に読ませる事が出来るのは、夢野久作先生の文体があっての事なのでしょう。

 

 

一方、これがコミカライズされますと、思った以上に分かりやすくなるんですよね。実際、小説に書かれている内容の全てが書ききれているかという微妙ではあるのですが、話の筋自体は網羅していますし、何より、唐突に変化する場面転換も、こま割りされた絵で表される事で、かなり読みやすくなっていると思います。案外、漫画と相性が良い作品なのかなとも思ってしまいます。少なくとも、小説版「ドグラ・マグラ」を読む時の、良い参考書となるような気はします。

 

 

物語は、意識不明のまま、九州大学病院の精神科に入院していた、ある事件の重要参考人が意識を取り戻すところから始まります。

 

主人公は、この重要参考人の「青年」です。名前は、物語の最期の方まで出てきません。「青年」は、ある事件を切掛けにして記憶喪失となり、そのまま精神科に収容されていたという状況でした。

 

物語の運びとしては、事件解決の為に、「青年」の記憶を蘇らせようと法医学教授の若林鏡太郎という登場人物が、「青年」と対話を続けるという構成です。話の中には、多くの人間の名前は出てきますが、作品の時間軸の中で存在しているメインキャラは、三人しかいません。基本的には、「青年」と「若林鏡太郎」の会話に、回想や資料の振り返りを割り込ませるような形で話は進みます。その点では、物語全てではありませんが、前半部分に関しては、複雑な構成であっても、基本の時間軸には現実というシンプルさがあるので、読者としては話が大きく広がりすぎても、元に戻る場所が用意されているようで、少し安心する事ができます。

 

 

しかし、次第に、話が広がるにつれ、読んでいる方の時間感覚も狂ってゆき、しらずしらずの内に物語の中で、唯一、灯台の灯のようにはっきりしていた主人公と若林鏡太郎が会話をしているという現実でさえあやふやになり始めます。

 

しかし、ここで断っておきたいのは、どちらかというと小説版の感想に近くなってしまい恐縮ではあるのですが、また、もしかしたら、コミカライズで漫画家さんも再現しようと意識されていた事でもあるのかもしれませんが、私は現実があやふやになってゆくという感想を前述しましたが、それは現実が曖昧になってゆくという現象を文章で描いているというのとも、また、物語が論理的に破綻しているというのとは、全く意味が異なっており、あえて具体的に述べるのならば、物語も文章も破綻する事なく、「曖昧になる事」そのものを書き表す事なく、読み手に作品を読んでいるという最小限の自我を保たせつつ、読んでいる人間の中に、本の中の現実が何処にあるのかが分からなくなってゆくという現象を故意に起こさせているという事を意味しています。それを一言でいうのならば「取り込み、溺れさせる」という言葉が当てはまるのかもしれません。そして、最期には読者の視点である、主人公の自我までも曖昧となり、それと一緒に読者には煙に巻かれたような不思議な読後感が残ります。(あくまで、私の感想ですからね)

 

こうやって書いてみると、小説というよりも、アングラ芝居のシナリオを説明しているような気になってきますが、また、この夢とも現実ともつかない不気味さが、漫画版にしても小説版にしても面白さの一つだと言って良いでしょう。そういった意味では、漫画版「ドグラ・マグラ」は、小説の雰囲気を上手く掴んでいるともいえると思います。

 

 

漫画版「ドグラ・マグラ」も大変面白い作品ですが、漫画の分かりやすく明確に伝えるという絵の力とは、また、違った、文字だけで物語を伝えるというシンプルな手段だからこそ可能な、より深く伝え思考させるという特徴を持つ小説という手法によって描かれた「ドグラ・マグラ」も大変魅力的な作品です。

 

特に、小説という手法と、夢野久作先生の筆力が合わさった時の力は絶大で、印刷された言葉達は、読む人に対して、脳の奥に硫酸を流しこむような問答無用の浸食力を発揮します。

 

漫画版を読んで面白かった方は、是非、小説版を読んで、夢野久作先生の筆力と絶妙な構成力を確かめて戴きたいと思います。

 

 

 

 


オリジナル版 魔王ダンテ

永井豪先生の作品は、有名な物が多いです。特に、「デビルマン」や「マジンガーZ」なんかが特に知られた所ではないでしょうか。こちらの「魔王ダンテ」は、その有名な「デビルマン」のモチーフになった作品と言われている作品です。実際は、デビルマンを依頼した出版社の原稿依頼の内容からして、「魔王ダンテを基にした作品」という要望だったらしいです。

 

「魔王ダンテ」が最初に雑誌掲載されたのは1971年ですが、平成になってからも、完成版が作成されています。1994年に風雅明先生が「真・魔王ダンテ」を発表されていますが、永井豪先生ご自身が描かれたのは、1971年に発表された最初の作品と、その後、平成になってから、ご自身で加筆修正され完結した物の二つになります。後に出されたOVAは、平成版の完結版の方を基に作られたようです。私は、まだ、完結版の方は読んでいないので、今回の感想は1971年出版のオリジナル版についてのものになります。

 

最初から、そのように作ったからなのでしょうが、こちらの「魔王ダンテ」は、やはり、「デビルマン」を彷彿とさせる箇所が随所にみられます。…というよりも、これ以降、現在まで続いている「デビルマンシリーズ」の世界観は、ここから続いているといってもいいような気がします。実際、「デビルマンレディ」の中でも、パラレル世界の住人として、「魔王ダンテ」の登場人物宇津木涼君は登場していますので、やはり、永井豪先生の中でも、「デビルマンシリーズ」の一つとして認識しているのだろうなと思われます。

 

本当に失礼な話なのですが、永井豪先生の作品の中にはいくつか、紀貫之を評した有名な言葉「想い余って、言葉足らず」ではありませんが、想像力の膨張率のスピードに、漫画を描くスピードが圧倒的に追いついていないという事があるような気がします。ちなみに、この「追いついていない」という言葉の意味ですが、それは永井豪先生の書くスピードをどうこう言う意味ではなく、反対に、その想像力が膨張してゆくスピードと広さの凄まじさを指している言葉です。

 

勿論「魔王ダンテ」の場合は連載されていた雑誌が休刊となった事による打ち切りという事情はあるのでしょうが、それを差し引いても、恐らく、永井豪先生の頭の中の想像力は、人間の原稿を作り出す限界のような物を軽々と超えているのかもしれません。

 

そして、積み上げられ触れあがった想像は、何処かで爆発し、必ず名作として実を結ぶ。常にそんな過程を踏んでいるような気がしてなりません。そう思うと、よくぞ、過労死する事なく、名作を世に送り出してくれた物だと、感心する気持ちと感謝の気持ちが両方湧いてきます。

 

 

作品のストーリーを紹介いたしますと、「魔王ダンテ」と主人公宇津木涼との出会いは、雪山登山です。この辺は、アニメ版デビルマンを彷彿とさせますね。ちなみに、デビルマンレディでも宇津木涼は、地獄の最下層、神様に反抗した人が永遠に氷漬けになってるコキュートスまで行って、ダンテと合体していますので、永井豪先生のイメージにとっては、「永久凍土の中に封じられた悪魔王」というビジュアルは重要な物だったのだろうなと納得させられてしまいます。

 

 

氷の中に閉じ込められていた魔王ダンテが、テレパシーで宇津木涼を呼び寄せ、ダンテを封じ込めている機械類を壊させて、自由になるという話が、物語の冒頭です。テレパシーを送り続けて、受け取った人間を引き寄せるという方法が、若干、横山光輝の「バビル二世」を連想させますね。

 

結局、引き寄せられ、封印を解かされた宇津木涼が、どうなったかというと、復活したてのダンテに食べられてしまいます。もう、酷いもんで、体上下真二つに食いちらかされる感じです。このシーンも、デビルマンの不動明は、最期は上半身だけになって死ぬし、そもそも、宇津木涼と不動明の顔自体がそっくりです。この辺でも、共通点を感じてしまいます。さらに、これは余談なのですが、マジンガーZのアシュラ男爵、ブロッケン伯爵、ピグマン子爵、ゴーゴン大公なんかにも見られるんですけど、永井豪先生は、体の何処の位置に線をひくかはその時に応じて違いますが、「真二つ」ビジュアルそのものが好きなのかもしれませんね。

 

それはそうと、ダンテが宇津木涼を食べたのにも訳がありまして、ダンテは人間の脳を食べ、その人の経験や知識を手に入れるという能力があるそうでして、永い眠りから覚めたダンテは、現代の情報を何も知りません。封じ込められていたダンテが自分の事を「イスカリオテのユダ」と名乗っていましたので、それが事実で、キリストの磔刑の時に封印されたのだとすると、少なくとも二千年近い時差が生じる事になります。相当の時代遅れです。たれパンダがどうとか、タマゴッチがどうとかの比ではありません。そんなダンテですので、手始めに、宇津木涼の脳を食べて、現代の社会情勢を知ろうとしたわけですね。

 

ところがどっこい宇津木涼も、食べられるだけではありません。自分は食べられた!そう思った宇津木涼が次に気が付いた時、彼は、魔王ダンテとなっていました。ようは、ダンテに吸収される筈だった脳が、逆に、ダンテの体を吸収、支配してしまったという事ですね。この辺も、後のデビルマンのアモンと不動明の関係によく似ていますね。まぁ、この行為自体は、悪魔だ人間だというよりも、カタツムリに寄生して脳を操り、鳥に食べられやすいように仕向けてゆくロイコクロリデュウムや、カマキリに寄生して水辺までカマキリを連れて行った所で、腹を食い破るツリガネムシのような寄生虫の方が近い感じはしますが、人間の意志の力なんて事をテーマにしたい時になんかにも、分かりやすい表現だと思いますが…。しかし、天下の永井豪先生は、何処かで聞いたようなテーマでは、落ち着いてくれません。実際は、宇津木涼がダンテの体を乗取れたのも、偶然ではなく、ちゃんと理由はあるんですよね。ちなみに、元々の理由なんか知らない、ダンテと合体した当初の宇津木涼は、その後、自分のアイデンティティがダンテの肉体にあるのか、それとも、自分の保持している記憶と人格である宇津木涼にあるのか分からなくなり、揺れ動く日々を過ごします。

 

 

結局は、最終的にはダンテとしての自我を確立して、「さぁ、みんなで元気に人類を滅ぼそう!」という事になる分けなんですが、文章の冒頭でも書きましたが、休刊、打ち切りという事情のせいで、ここまでのスピードが本当に早いです。まぁ、仕方がない事だったのでしょうけど、確かに、これだと出版社も読者も、「基にした次回作を…」くらいの事は言いたくなるでしょうね。実際、永井豪先生ご本人も「デビルマン」を書いても、「魔王ダンテ」が完結していないという思いはあったからこそ、後に「完結編 魔王ダンテ」を完成させたのでしょう。

 

 

実際の所、こちらのオリジナル版とされる「魔王ダンテ」には、その後の「デビルマン」などに比べると、不完全で荒い所はあるのですが、根本的には、私は、こちらのオリジナル版「魔王ダンテ」は、作者の脳みそをそのまま紙面に塗りたくったような印象があって、とても面白い作品だと思っています。

 

また、「魔王ダンテ」だけで見ると、このオリジナル版は試作品、未完成品というような受け取り方もありますが、多くのデビルマン関連作品と関連付けて見てみると、その着想、物語の構成、キャラクター…、そうした多くの物が、その後のデビルマンシリーズに繋がっており、まさに、「始まりの書」と言っても、過言ではないでしょう。私としては、こちらのオリジナル版「魔王ダンテ」を読んで、初めて「デビルマン」という物語の輪郭がはっきり捉えることができたような気がしています。

 

 

特に私のような、永井豪先生の作品がお好きな方、「デビルマン」LOVEの方は、こちらのオリジナル版「魔王ダンテ」は楽しめる作品なのではないかなと思っております。


プロフィール

manga2525

Author:manga2525
漫画、映画、アニメ、ドラマ大好きです。
すっかりメディアにはまり、きっと、その筋の業界の方には、
私はなかなか良いお客さんなのだと思います。
でも、いいんです。よくよく分かっている事ですので、…というわけで、一人でテレビや本みてほくそ笑んでいるのもなんなので、人前で語ってみようと思い始めたブログです。

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