坂道のアポロン

原作者は小玉ユキ先生という方です。こちらの作品は、アニメ化も映画化もされた事のある作品ですね。私はアニメも映画も、見た事が無かったのですが、名前は聞いた事はあったので、今回、読んでみました。この作品自体は、別にファンタジーではないのですが、読んでいると、何故か不思議な夢の中にでもいるような妙な気持ちにさせられる所のある漫画です。

 

ふるい分けをすると音楽漫画、ジャズ漫画という区分けができるのでしょうが、ジャズの事を中心に据えているというよりも、ジャズを切掛けに出会った若者たちの人生を書き上げた作品という印象です。

 

しかも、その一人一人の話や、それぞれの間での気持ちの交錯が細かく書き込まれているんです。読んでいて切ないこと、切ない事…。なんで「坂道のアポロン」の登場人物たちは、こんなにも繊細で不器用で、どいつもこいつも相手に対して諦めるってことをしないんでしょうかね?なんか、どうしようもなくじれったくて、どうしようもなく応援したくなってしまうそんな人たちばかりの物語です。

 

物語は、西見君が九州の学校に転校してくる所から始まります。それらしいセリフによる説明はありませんのではっきりとは言えませんが、漫画の中にも、それらしい描写があり、小玉ユキ先生のご出身が長崎県という事からみて、恐らく、舞台が長崎県なのだと、私は勝手に思っています。

 

西見君は、家庭の事情で親戚のお家に住んでいます。自分の生い立ちや、置かれた状況をどう捉えていいのか、また、自分がこれからどう生きていいのかが分からいまま毎日を過ごしていました。そんな経緯もあってか、西見君には、読者の私から見て、若干、「世の中を斜に構えて見て、他人とも必要以上に距離をとってしまう」そんな印象を受けます。…っというか、このキャラ設定時点で、かなり私のポイントは高くなりました。私、教室の端っこの窓際の席で校庭を見ているような男の子キャラは、基本的には好きです。お陰で、冒頭から、難なく引き込まれてしまいました。

 

やがて、西見君は、クラスの中で危険人物と言われる川渕君と出会う事になります。勿論、同じクラスなので、何もしなくても出会う事になるのですが、単なるクラスメートというだけでは、なかなか、深く知り合うまでには行きにくかったりします。ましてや、川渕君は、クラス中から警戒されている子です。切掛けもなしに、仲良くなるというのも難しい話です。…と言う事で、ここで一悶着起こります。あえて何が起こるかは書きませんが、なかなかに、青年らしい、若く美しいエピソードです。

 

しかし、ここで問題が一つあります。西見君は、転校してきて恋をしてしまうのですが、その相手が、親友、川渕君の幼馴染という事になってしまいます。ここで一つ三角関係が生まれます。まぁ古来よりの純愛物でしたら、これで十分、ご飯三倍、終結5本前くらいまで引っ張られる所なのでしょうが、「坂道のアポロン」は、さらに恋敵が現れます。最終的には、何角関係まで広げるのだろうか、収束に向かえるのだとうかを心配される方もいらっしゃるかもしれませんが、広げた風呂敷は、最後にちゃんと回収されておりますので、その辺は心配には及ばないと思います。

 

もしかしたら、今までの私の説明を読んで、恋愛物を重点的に読まない人は、少し面倒くさそうな顔になるかもしれませんが、実際、読者側の意見からすると、それで「面倒くさくなる」「中だるみになる」という感覚は一切ありませんでした。むしろ、強く引き込まれたという気持ちの方が強かったです。

 

 

なによりも、感心してしまうのが、これだけ恋愛の角数を増やしておいて、登場人物を誰一人としてぞんざいに扱っていないという点です。一つ一つの恋愛を細かく、互いの気まずさ健気さを拾い上げ、それによって影響を受ける別の人間の「遣る瀬無さ」や「憤り」、また、それによって変わっていってしまう他の関係など丹念に描いてあります。

 

「一つの事を長々と書いてある場面が長い」と退屈するという見方はありますが、私は、必ずしも、全ての状況に、その原則が当てはまるとは思っておらず。むしろ、「書くべき事が書かれていない場面が長々と続いてゆく事は、読んでいて辛い」と置き換えてもよいのではないかと思っております。

 

人間は、基本的に他者との中で生きています。完全に独りぼっちで、誰とも接しない人間というのは、現実的ではないと、私は思っています。

 

逆に言えば、人をちゃんと描くという事が人の心の機微を丹念に描くという意味であるのならば、他者との関係、そこからの心と体の影響を地道に書いてゆくというのが、いわゆる「ちゃんと描く」という事になるのだと思います。

 

つまり、人を描く、物語を描くという事は、「関係」を描くという意味にもなると思うのです。逆に言えば、その人間の関係を描かずに、その人間を描く事は難しい事と言えるのではいでしょうか。

 

あくまで私の考え方で、大変、恐縮なのですが、関わりをちゃんと描かずに、物語が前に進んでしまうと、読んでいる事に違和感を抱いてしまいます。さらにそれが長々と続けられてしまうと、正直、「面倒くささ」「中だるみ感」というものを感じてしまうのも致し方ないかもしれません。

 

 

しかし、「坂道のアポロン」は、かなりしっかり登場人物たちの関わり方を描いていますので、「中だるみ」を感じたり「置いてきぼり感を感じて読むのが面倒くさくなる」というような印象を受ける事はありませんでした。むしろ、ネタバレになるといけないので、あまり登場人物の名前を出しませんが、どんどん感情移入してしまい、かなり切ない気持ちにさせられてしまう登場人物もいます。

 

また、感想文の最初の方でも書きましたが、作品の方を読んでいただければお分かりいただけると思うのですが、小玉ユキ先生の描写というのが、なんか白日夢でも見ているような、良い意味で淡い感じのする絵なんですよね。それが、ジャズを通して出会った少年、少女達の成長という、若い時代の淡い思い出という世界観と、とても重なっていて、とても良いのです。やはり、物語の雰囲気を強く把握できているのは、原作者という事になるんでしょうかね。

 

さらに、「坂道のアポロン」は、かなりラストが綺麗に終わっている作品だなと、私は思っています。やはり、いくつかの漫画を読んでいて思うんですけどラストを綺麗に終わらせるって、色々な意味で難しいんだなと思う時があります。

 

その色々な意味の中には、勿論、書き手の充分な実力という大前提は入っているのでしょうが、例え、書き手に充分な実力があったとしても、上手くラストが終われない作品を見かける事も事実です。その理由には、他に出版社の事情的な物もあるでしょうし、体調不良、社会的な影響、様々な物が関係してくるのだと思います。

 

そして、それだけに綺麗にラストを締めくくれた漫画というのは、とても恵まれた作品なのだと言って良いのだと、私は思います。そういった意味で、「坂道のアポロン」は、その内容の完成度の高さや、物語が醸し出している雰囲気といった物が、まっすぐラストに向かってゆく事ができた。多くの意味で、「恵まれた作品」と言ってもいいのではないでしょうか。

 

 

 

 

サイレーン

菜々緒さんの主演でドラマになったサイレーンですが、聞いた話によると、ドラマと漫画だと登場人物の設定が少し違っているようですね。ドラマだとどうしても、役者さんのスケジュールなんかもあって、回数が決まっているから、上手く終了させるためには、色々、漫画と同じようにはいかないんでしょうね。

 

原作者の山崎紗也夏先生の作品は、「マイナス」と「マザールーシー」「しましま」くらいしか読んだことがないのですが、心に闇をかかえた人を描くのがとても上手くて、特に魅力的な女性キャラクターを生み出す方だと記憶しています。

 

山崎紗也夏先生の書くキャラクターは、いつも、最後まで謎を残しているように思えます。その謎が、「生きるとは何か?」「悪とは何か?」のような根源的な問いを投げかけてくれているようで、今まで読んだ作品は、全て綺麗に締めくくられているのですが、余韻とでも言うのでしょうか、良い意味での「後味の悪さ」が残る作品が多いなというのも、私が今まで読んだ山崎紗也夏先生の作品に共通して感じられる印象です。

 

 

今回の「サイレーン」は、猪熊夕貴と橘カラという二人の女性が主人公です。

やはり、読んでいて面白いのは、この二人の性格が、とても対照的でして、対照的すぎて、二人が何処か引き合ってしまうという点です。そして、二人の関係が近づくにつれ、物語が核心へと近づいてゆき、物語そのもののスピード感が増してゆくようで、読んでいる人間をひきつけます。また、猪熊と橘カラが引き合うのに呼応して、猪熊のまわりの人間や、橘の身近な人間も、事件の中に巻き込まれてゆきます。こうした過程での、物語の広がりや、登場人物同士のすれ違いなども、読んでいて楽しい点です。

 

猪熊さんとカラちゃんの関係を簡単に書くと、刑事と殺人者です。この辺のネタバレは、ドラマでも描かれていますし、物語の最初の方で判明しますので、読み進めてゆくのに、全く、支障はないと思いますので、ご容赦下さい。

 

物語の始まりは、風俗店で死体が発見される事で始まります。

警察は、関係者に昨夜のアリバイを聞くものの、店の従業員達は、全員、アリバイがはっきりしており、死体の携帯電話には遺書のような内容の文章が残されていました。

 

死体にも不審な所は見つけられず、警察の見識は、上司の判断で、自殺目的の急性アルコール中毒という見方で落ちつきます。

 

だが、現場を捜査する刑事の中に違和感を持ったものがいました。猪熊のパートナー里美です。里美は、事情聴取を受ける女性従業員の中に、見覚えのある顔を見つけます。

 

里美と猪熊は、事件が起きた時間、同僚たちとカラオケボックスで飲み会を開いていました。強かに酔いカラオケ店の廊下で寝ていた里美はが、目を醒まし立ち上がると、一人の綺麗な女性が里美の横を通り過ぎてゆきました。

 

その女性が、里美の目の前で事情聴取を受けている女性だったのです。女性は、里見達と同じカラオケボックスにいたにも関わらず、事件現場で警察から事情聴取を受けた時、「仕事が終わったらすぐに帰った」と警察には答えていました。

 

しかし、里美と猪熊は、「彼女の仕事柄、客との関係で店に知られたくない事でもあったのだろう」と考え、捜査上、大した影響はないと判断し、彼女への事情聴取をやり直すことはしませんでした。これが、猪熊と橘カラとの、最初の出会いです。

 

その後、カラちゃんは、猪熊を意識しながら、殺人を繰り返してゆきます。ただ、面白いのは、もともと、このカラちゃんの人殺しの動機が、憎しみや物欲だとか、そういう物ではない所なんですよね。金とか、恋愛とか分かりやすい動機なら、話も簡単なんですが、カラちゃんが殺す人を選ぶ基準は、「優しさ」や「正義感」といった内面部分で自分に持っていない物を持っている人。「ああ、凄いな、私には無いな…」と感心した相手だとの事です。

 

本来だったら、そういう相手に出会った時は、「私もこんな人になりたい」とか「友達になりたい」とか思うものなのでしょうが、カラちゃんの場合は、そこがちょっと違っているのです。

 

「この人は私に無い物を持っている」

⇒「羨ましい」

⇒「私はない」「喪失感」

⇒「自分に無くて、相手にあるのならば、相手を殺せば手に入る」

⇒「殺そう」

という思考回路のようでして、物語の中でのカラちゃんは、相手を殺すと、自分が羨ましいと思った部分が手に入ると思っているようでして、羨ましさや尊敬の念を感じる相手というのが、そのままカラちゃんの標的となるわけですね。ここが面白い所でして、「自分より優れた人間を抹殺すれば、全体的に自分の順位があがって、自分の方が優れた人間になる」とか理屈っぽい事は考えないんですよ、カラちゃんは…。

 

彼女にとっては、殺人は捕食に近い位置づけで、目的はあくまで相手と一体になり、取り込む事なんですよね。もしかしたら、彼女にとっては、精神的な特徴や美徳なんてものも、アミノ酸やら炭水化物なんかと同じ栄養素くらいにしか感じられていないのかもしれません。そして、猪熊夕貴の場合は、彼女の強い正義感が、カラちゃんを引きつけ、猪熊は命を狙われるようになってゆきます。正直言って、迷惑な話です。

 

さらに、裏を返せば、そのように素敵だなと感じてきた人は殺したくなってしまうので、カラちゃんと長く付き合えている人間というのは、本当に橋にも棒にもかからないというか、カラちゃんから見て魅力の欠片もない人ばかりという事になってしまいます。

 

方法は間違っていても、彼女なりに素晴らしい人間になろうと努力しているのだとも言えるわけなのですが、それにも関わらず、長く生きれば生きる程、まわりには魅力のない人間ばかりが集まり、自分は孤立してゆき、殺人のスキルだけが向上してゆくという何とも遣る瀬無い話です。

 

でも、いいんです。

カラちゃんは魅力あるから!

…漫画だしね。

 

しかし、この漫画の面白いのは、そこが到達地点ではない所です。猪熊と関わり、言葉を交わす内に、カラちゃんの中で、信仰にも近い、「自己実現の方法としての殺人」という思い込みが揺らぎ始めます。

 

カラちゃんの心の動き、誰とも共有できない衝動を持ちながらも、それを自分の中で理解しようとする辛さ、時に、自分と真っ向から向かい合う事がどんなに難しいかという事、様々な問題を孕みながら、物語は終焉へと向かいます。

 

カラちゃん、猪熊がどんな答えを出すのか、そもそも答えなんてものが存在するのか…。ドラマを見た方も、見なかった方も、是非、一度、ご自身の目でお確かめください。

 

 

 

 

 

 

 

 

なのはな

こちらも萩尾望都先生の作品です。

内容は、東日本震災、おもに福島原発をテーマにした短編集となります。収録されている短編は、全てファンタジーです。いや、ファンタジーというよりも、寓話と言ってよいかもしれません。

 

収録されている短編は、全部で6

●なのはな

●プルート夫人

●雨の夜―ウラノス伯爵―

●サロメ20XX

●なのはなー(「幻想」銀河鉄道の夜)

●福島ドライブ

となっています。

 

「なのはな」

コミックスのタイトルにもなっている「なのはな」です。他にも、もう一遍、「なのはな」というタイトルの作品があります。内容の違いとしては、現代を舞台とした漫画で、セリフのやり取りのある通常の形式で書かれている物を「なのはな」と名付けているように思えます。

主人公は、東日本震災後の福島県に住む小学生の女の子、ナホちゃんです。ナホちゃんは、震災の津波でお祖母ちゃんを失っています。

 

ナホちゃん家族は生き残り、今までとは違う場所に住んでいますが、お爺ちゃんは、お祖母ちゃんの死を受け入れる事が出来ず。未だに、お祖母ちゃんの帰りを待っています。

 

しかし、お爺ちゃんだけではなく、誰もがお祖母ちゃんが死んだ事を受け入れられず、大切な人が突然消えてしまった空虚感を胸の中で押し殺しながら、毎日を暮らしていました。

 

そんな中、ナホちゃんは不思議な夢を繰り返し見るようになりました。

夢の中のナホは、チェルノブイリにいて、死んだはずのお祖母ちゃんを必死に助けようとしています。そして、そこにはお祖母ちゃん以外にも、見知らぬ女の子が、人形を抱いて立っていました。

 

ある日、お祖母ちゃんのお友達の藤川さんが遊びに来てくれました。そこでお祖母ちゃんがチェルノブイリ原発の被害を受けたウクライナの子供達に、人形を作ってあげていた事を知ります。人形を渡された子供達の写真を見せてもらい、ナホちゃんは驚きました。そこには、夢で見た女の子が写っており、女の子が持っていた人形も写っていたからです。そして、ナホちゃんは、夢の中で女の子と話をします…。

 

「プルート夫人」

近世ヨーロッパの法廷。居並ぶ紳士淑女、知識人たち。彼等は、ある者の真偽を確かめる為に集められた。彼女の名は「プルート夫人」その眼差しを向けられた者は恋に落ち、声を聴いた者は夜も眠れない。

 

絶対の力、絶世の美貌、彼女は世界中の人間に富みを与え、世界中の人間に永遠の喜びを遣わす。「真偽」を問うという法廷の役割も忘れ、居並ぶ人々は、プルート夫人の魅力に酔いしれ、われ先に彼女の恩恵を受けようと走り寄る。

 

やがて、法廷でプルートの影響力(核廃棄物の放射線)が消えるまでに10万年以上かかるという情報が現れ、法廷内の人間がどよめきだつ。しかし、彼女の恩恵を諦められず、迷っている間に人間たちの体が、放射線の影響で崩れ腐ってゆく。

 

「雨の夜―ウラノス伯爵―」

何処かで開催されたセレブたちのサロン。新しい客が招かれる。彼の名前はウラノス伯爵。彼がサロンを訪れる事を知り、一人のお客が叫びだす。「私はいや」「かれにあいたくない」すると、他の客が「いずれは、会わなければならないんでしょう?」と言う。参加者の期待と不安の入り混じる中、最後の客人、ウラノス伯爵が部屋の扉を開ける。

 

ウラノス伯爵を歓迎する者、毛嫌いする者、抹殺しようとする者。同じ部屋に集った人々は、ウラノス伯爵に、各々、違った感情を抱く。しかし、共通している点は、誰もが彼を見過ごす事はできない。皆が彼の魅力に惹きつけられる。特に彼の富をもたらす力は絶大で、だれしもが彼と付き合う事のリスクを忘れてしまう程だった。

 

豊かな生活とそれを得る事のリスクを目の当たりにしながらも、豊かさを捨てようとする者もいれば、いずれ来るリスクの回収を忘れようとする者、考える事を辞めてしまう者、放射能という夢の力を目の前に戸惑いながらも、結局は、何も決められず、今までの生活を繰り返す事しかできない人間の性を描いた短編です。

 

「サロメ20XX年」

新約聖書をオスカー=ワイルドが戯曲化した有名な作品「サロメ」ですが、それを舞台を現代のナイトクラブ、サロメをナイトクラブで働くショーガールとして表現。上の二つの物語と同じ、核反応物質の擬人化ですが、面白さと軽い寒気を感じる良い作品です。

「なのはな(「幻想」銀河鉄道の夜)」

現代版では福島県の話が多い、作品集では珍しく岩手県のお話です。

津波と震災で祖母を亡くした女の子が、夢の中で乗った銀河鉄道で祖母と再会。逝く者と残された者との命のリレーを思わせる作品です。

 

「福島ドライブ」

セリフはありません。甲斐よしひろさんの「立川ドライブ」の歌詞とともに、絵だけの駒が続きます。これをどう捉えるかは、読んだ人によると思いますが、私は、被災地に住んでいる方々だけではなく、被災地を故郷として都会で頑張っている人たちの、故郷の惨状を知った悲しさや孤独感、故郷が消えてしまう事への恐れのような物を感じました。他の方々は、どのように感じられるのでしょうか?

 

 

 

 

 

 

 

大きな災害に見舞われると、人は、その意味を考えます。何故、こんな目にあったのか、私達の何が間違っていたのか、そして、これから私達はどう生きるべきなのか。恐らく、それらの答えは、その時代に生きた人の数だけあるのだと思います

 

しかし、そうした記憶も、いつかは風化します。直接の被害者でもなければ、毎日、耳に入るニュースの数々に、その時、考えた事や、過去の痛みなどは、ゆっくりと薄らいでいってしまいます。

 

記憶が薄らぐ事自体は、けっして悪い事ではありません。むしろ、健康的な事だと言ってもいいかもしれません。しかし、生きていれば、どうしても、忘れてはいけない事、忘れたくない事というものはでてきます。そんな時、忘れない工夫が必要になってくるのです。

 

歴史の年表で後世に伝えられる事に限りがあります。その時、その場で生きていた人が何を考えていたのか、未来にどんな不安を抱いていたのかという事までも、伝える事は難しいかもしれません。そんな場合に、人間が生み出した忘れない工夫の一つが「寓話」なのかもしれません。

 

いつか、遥か未来、全ての記録が消え、人々が具体的な事実を忘れた頃になっても、誰かが、この本を読んで、便利さと引き換えに、人は何を失ってゆくのか。生きてゆく為に「便利である事」と「必要な事」そして「失ってはならない事」が、それぞれ何なのかといった事を、再び、考える事ができれば素晴らしい事だと思います。


シグルイ

原作は南条範夫先生、作画は「覚悟のすすめ」で有名な山口貴由先生です。

 

南条範夫先生が書かれた原作は「駿河城御前試合」という時代小説で、題名の駿河城御前試合に出る十一組の因縁ある対戦者同志の物語の短編集で、「シグルイ」はその中の「無明逆流がれ」をもとに膨らませた作品です。

 

原作の駿河城御前試合を私は読んではいないのですが、35ページ程の短編とのことなので、その内容は、かなり作画の山口貴由先生の創作が加えられていると思われます。

しかし、私が読んで気に入ったのは、山口貴由先生の手のはいった「シグルイ」なので、特に問題はございません。

 

あらすじは、そんなに複雑ではなく、駿河城御前試合で行われる、十一組の内のひとつの対戦を取り上げ、その対戦者同志の出会いから、対戦にいたるまでの経緯を描いてゆくという構成です。

ここで、ひとつ注釈なのですが、この駿河城御前試合というのは色々な経緯がありまして、大前提として、ルールが真剣での命のやり取りということになっています。本来、木刀を使って、さらにマジ打撃ご法度な御前試合で、そんなファンキーなルールが適用された経緯も作品内で描かれているので、お読みの際は切迫した作中の世界観をお楽しみください。

 

…とにもかくにも、藩のお偉いさんも、そんな狂った試合は、ふつうの人間にはさせられません。しかし、その理由は、試合者の安全がどうとかいう物であろうはずがありません。本当の理由は、下手な人間を選んでしまい、無様な試合をやられた日には、主催のクレイジー殿様の逆鱗にふれて、自分たちまで、お手打ちにされてしまうからというものです。

 

そんな理由から、藩のお偉いさんは、家中でも遺恨のある者同志、仇討願いが届けられている者同志等、今にも一触即発しそうな人間同志を集めて戦わせることにします。

ようは、お殿様の我儘と、藩内の火種、両方をなんとかしようとしたというのもあるのでしょう。

 

そういった経緯により、御前試合に参加する十一組、二十二人、全員が因縁浅からぬ者同士の公開泥沼大会となってしまったのです。

 

勿論「シグルイ」の主人公、藤木源之助、対戦相手、伊良子清玄も元は「虎眼流」という剣術流派の同門であり、かつては龍虎と並び称され、「どちらかが流派を継ぐことは間違いない」とまで言われた剣術家でした。

 

物語の冒頭、御前試合で二人が向かい合った時、藤木源之助は隻腕の剣士、伊良子清玄は盲目、跛足(足を引きずっている人ね)の剣士。

 

だが、次の場面で、描かれた昔の二人…。

その頃、藤木の胴着の袖からのぞいた逞しい二本の腕は、木刀をしっかりと握り、伊良子清玄は瞳に強い光を宿し、鍛え上げられた脚力で天性の俊敏さを発揮していた。

互いの技を高め合う二人が、なぜ傷だらけの体で御前試合に臨むこととなったのか…。

 

15巻という長い話ですが、退屈することなく最後まで見る事ができました。同じ場所で同じ分野を学んでいた者同士が、公衆の面前で殺し合う経緯や、二人の関係の変化、心理描写、二人を取り巻く環境の変化なんかを丹念に描いていったら、15巻くらいは平気でいってしまうのでしょうね。

 

特に見所の一つとしていえるのが、二人の師匠である岩本虎眼先生の狂い方です。漫画誌に残るいかれっぷりといってもよいのではないでしょうか。本編の中で、多くの時間、虎眼先生は心神喪失状態です。その描き方は、一見すると認知症が発症したようにも見えますが、また、一見すると全く別の状態のようにも見えます。さらに、質が悪い事に、この虎眼先生、残酷ぶりと武術の腕と欲望はそのままに自分を見失っています。その為、道場内で誰かが殺された場合は、必ず最初に疑われるのが道場主の虎眼先生という有様です。そして、この虎眼先生、常に意識が飛んでいるわけではなく、時々、冷静な状態に戻るのですが、始末の悪い事に、冷静に戻った時の方が、遥かに残酷で、狂っているという事です。この点だけでも、一読の価値はあります。

 

また、作画の山口貴由先生の絵が、少年漫画のタッチから、作品の世界が深くなってゆくにつれ劇画タッチに変わってゆくのも見物です。

山口先生は、昔、週刊チャンピオンで「覚悟のススメ」や「悟空道」などを描いていた作家さんで、その世界観やキャラに対する熱量が半端ではなく、読むうち引き込まれていったのを憶えています。

そうした想像力が良い方向で、原作に描かれていない部分の「無明逆流がれ」を組み立て、「シグルイ」という形になったのだなと、妙に納得させられてしまいます。

興味のある方は是非、ご一読ください。

 

 

 


春の夢

いいですね。泣く子も黙る24年組、天下の萩尾望都先生の作品です。

こちらは、数十年ぶりに描かれた「ポーの一族」の続編です。

萩尾望都先生は、インタヴューで、昔のような線はもう書けないという仰っておりました。確かに、少女コミック連載時の「ポーの一族」の線の細やかさとは、ちょっと違ってはいますね。人によっては、その違いに苦手意識を持つ人もいるという話も聞きますが、私の場合、読み始めこそ、不思議な感じはしましたが、すぐに慣れて、物語の中に引き込まれてゆきました。

 

私としては、萩尾望都先生の繊細な線は勿論のことなのですが、ストリーテーリングの力の方に強く惹かれておりましたので、全く問題ないんですけどね。

 

調べてみたら「ポーの一族」の連載が終了したのが、1976年、「春の夢」が連載されたのが2016年から2017年間の事なので、40年ぶりの続編という事になります。これで、同じ線が描けたら化け物です。

 

「ポーの一族」自体が古い作品なので読んだ事がない方もいらっしゃると思いますので、ちょこっと「ポーの一族」の粗筋を書きます。平たく言っちゃいますと、ヴァンパイア物ですね。

 

主人公はエドガーというヴァンパイアの少年です(作中ではヴァンパネラと呼ばれています)他のヴァンパイア物と同じように、彼等はヴァンパイアになった時点で年を取らなくなります。だから、多くの者は、ヴァンパイア同士で村をつくり住みつき、一年に一度、人をさらってお祭りのように「気」を吸ったりします。それ以外は、ほとんどの時間を寝て過ごし、主な仕事といえば、「気」を補給する為の薔薇の花を育てたりするくらいです。薔薇の「気」というのが主食で、人間の「気」はイベント食と思って頂ければ良いかと思います。

 

そういった生活に馴染めない者や、何かしらの理由で村にいられなくなったヴァンパネラは、流れ者として旅をします。時に、年齢の違うヴァンパネラ同士でチームを作るわけなのですが、その際に家族の形をとります。また、家族の形をとりながら暮らしても、一つの土地に定住する事はありません。いくら家族が怪しまれにくいとはいっても、誰も歳をとらないし、死なない家族なんていうものは、怪しすぎます。

 

もしも、人間ではないという事がばれてしまえば、杭で胸を刺されて殺されてしまいます。ヴァンパネラは、不死身ではあっても、けっして無敵ではないのです。実際、エドガー達の住んでいた村は、近くの村民によって、滅ぼされてしまいました。そんな理由もあって、エドガー達は、用心しすぎても足りないという気持ちを持ち、旅をしているのです。

 

 そんな用心深い旅を続けているエドガー達ですが、旅先の小さな港町でヴァンパネラである事が発覚してしまい、エドガー以外のヴァンパネラは、皆殺しとなってしまいました。その後、エドガーは、騒動の中で、新しい同胞となった「アラン」という少年と二人で旅をする事になります。永遠の少年のまま…。

 

「春の夢」は、その後の「エドガー」と「アラン」の話です。

ストーリーは、こんな感じです。

1944年第二世界大戦中のイギリス、ウェールズ地方、アングルシー島にいきついたエドガーとアランは、ある少女に出会います。小さな弟を連れた少女は、まるで、はぐれた小鳥のような目をしていました。道すがら見かけただけの少女なのに、何故かエドガーの心の中には、少女の事が、いつまでも引っ掛かっていました。

 

少女の名前は「ブランカ」、弟の名前は「ノア」二人は、ドイツのホロコースト(ユダヤ人の大量虐殺)を逃れ、兄弟二人だけでイギリスの親戚の家に身を寄せていました。もしも、ドイツが侵攻してきた時の事を考え、両親とはオランダで別れて、兄弟二人だけ親戚の助けを借り、イギリスへと逃れてきたのです。それはブランカが11歳の頃の出来事で、現在の彼女は16歳となりました。

 

当時、イギリスとドイツは戦争中でしたので、イギリスでは敵国の人間と敵視され、ドイツではユダヤ人として差別され、身の置き所もなく、頼るべき両親は安否も分からず、彼女は不安な気持ちを押し殺しながら毎日を過ごしていました。両親と再会した時まで、弟のノアを守るのが自分の役目なのだと、自分自身に言い聞かせながら、再び、両親と暮らせる事だけを希望にいきる。ブランカはそんな少女でした。

 

ひょんな事から、エドガーは彼女の家を知り、二人は家を行き来する間柄になります。エドガーがビアンカを気になるように、しだいに、ブランカもエドガーの年齢とはそぐわない洗練された身の振る舞い、落ち着き、そして、優しい気遣いに惹かれてゆくようになります。年齢にそぐわない環境で生きる事を余儀なくされた少女が見つけた、年相応の恋でした。

 

そんな中、兼ねてより、長く患っていた、ビアンカを引き取っていた親戚のオットマー氏が亡くなりました。エドガーとは別系統のヴァンパネラの一族も、オットマー氏の死に関わり、物語は一気に動き出します。

 

ラストは書きませんが、読み終わった後に、心に残る切なさと、人間としての感情を残しながらも、永遠にも近い時を生きなければならないヴァンパネラ達の哀しさを想像し、物思いに耽ってしまいました。

 

是非、エドガー達の生きる永い時間の一片を、一緒に垣間見る事ができれば嬉しく思います。

 


プロフィール

manga2525

Author:manga2525
漫画、映画、アニメ、ドラマ大好きです。
すっかりメディアにはまり、きっと、その筋の業界の方には、
私はなかなか良いお客さんなのだと思います。
でも、いいんです。よくよく分かっている事ですので、…というわけで、一人でテレビや本みてほくそ笑んでいるのもなんなので、人前で語ってみようと思い始めたブログです。

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