不思議な少年

もしかしたら、作者の山下和美先生のお名前は「天才柳沢教授の生活」の方で、ご存じの方が多いかもしれません。ちなみに、この「天才柳沢教授の生活」は、フジテレビ系でドラマ化されました。主演は、松本幸四郎で、柳沢教授の娘役が国仲涼子だったような気がします。気になる方は、調べてみてください。

 

 

私は、山下和美先生の作品自体が結構好きです。最初に読んだのは、多分、歯医者で読んだモーニングに乗っていた「天才柳沢教授の生活」だったと思います。それで…、山下和美先生の作品をわりと追っかけるようになり、その内、特別連載か何かで、「不思議な少年」に出会ったような気がします。

 

「不思議な少年」は基本的には、一話完結のオムニパス形式になっており、何羽目から入っても話には、すぐに入って行ける有難い構成になっています。

 

ストーリーは、一人の「不思議な少年」時代や空間を動き回り、人々と関わり合うという話なのですが、この少年が割とネガティブな性格で、皮肉屋でそれでいて人情家だったりします。まぁ「本人が自分で思っている程、悪い奴じゃないんだけどね…」ってフォローしてあげたくなくなるような少年です。基本的に、この少年が死にません。っというか、時間とか寿命の観念が成立するのかさえもよく分からない少年です。また、少年かどうかも、その場面によって違っていて、時には大人だったり、また、時には女性だったりもします。長い時間を生きていて、不思議な力も使えるので、歴史のあちらこちらにお邪魔しています。だから、少年を目の当たりにした人の感じ方で、少年の印象は、大分変り、ある人は天使と言い、また、また、ある人は悪魔、なかには座敷童なんてよぶ人もいます。

 

どの物語にも共通しているのは、人間を嘲笑しているような少年の表情と、ともに悲劇を目の当たりにした時の、酷く悲しそうな表情です。多分、私は、この辺りの惹かれてしまったのではないかと思っています。

 

彼の表情の誤差の裏にある物は、限りある命の中で、欲望のままに生き、無駄な争いを続ける人間に対しての嘲りや同情、見下しという感情と同時に、精一杯に人を愛して、時には自分の身を破滅させてしまうような場面でも、我が身を投げうって誰かを救うような、言ってみれば非合理的な行動を取る事への疑問と強い憤りというような、相反する感情がないまぜになっているようにも覚える。

 

そして、何よりも、少年自身が、人間を愚かな生き物と吐き捨てながらも、その人間という種に絶望しきれない、人間を諦めきれないというのだという事が、この作品を読んでいると強く伝わってきます。少年は永遠とも言える長い時間をかけて、ただ、ひたすらに人間を見続け、問い続けてゆくのでしょう。時折、少年は気に入った人間を見つけると、命を助けようとしたり、永遠の命を与えようとしますが、そういう時に限って、人間は笑顔で少年の申し出を断ります。そして、少年は目の前の人間を助ける事のできない自分を責めるような表情をしたり、また、時には希望を見出したような晴れやかな表情を見せます。その時、思うのが、この漫画の登場人物の中で、最も、悩み続けているのは、主人公のしょうねんなのではないだろうか…、という事です。

 

オムニパスなので、いくつも好きな話はあるのですが、その中で、やたらと頭に残っているお話を紹介してみます。少しネタバレしちゃいますので、「少しのネタバレも嫌だ、私は本で読む」って方は、飛ばしてください。

 

 

―あらすじ開始―

「不思議な少年」(第十九話)NX-521236号 講談社モーニングKC第六巻

 

舞台は現代よりも、ちょっとだけ未来のお話です。

その頃の人類は、移住できる星を求め、太陽系外へと飛び出そうとしていました。その太陽系外惑星移住計画の要は、大量生産された子供型のアンドロイドでした。宇宙船に乗り、目的の惑星に辿り着いた子供型ロボットは千年間かけて、その星の大気や地形を改造して、人間が住める星へと変えてゆきます。ロボット達は、その間、誰からも注目される事もなく、ねぎらわれる事もなく働き続けます。ちなみに、量産型ロボットを子供型に設計したのは、人類が知らない間に移住可能な惑星を作るという作業を、主人が眠っている間に、仕事を終える小人の靴屋の童話に重ねて発想したという事だそうです。そして、この物語の主人公は、その中の一人の子供型のロボットです。

 

計画責任者のサンドラは、大量生産された子供型ロボットの指令系統として働くロボットNX-52136号に他のロボットが壊れても指令系統として最後まで残る「特別なロボット」としての役割を定め、その目印として毛糸の帽子を被せました。そして、その場面が物語の冒頭となっています。

 

広めのテラスで恋人と宇宙船打ち上げのニュース番組を見るサンドラ。自分の研究結果であるロボット達の事や、テラフォーミング計画の事を喜々として語るサンドラ。彼女の話を聞きながら、千年の孤独な労働に向かうロボット達を思い、「残酷」と言う言葉を口にするサンドラの恋人。二人は、夜空に向かって乾杯をします。

 

場面は転換します。宇宙船の中で安置されているロボット達と、それらを見てまわるNX-52136号。ふと宇宙船の窓から虚空を覗くと宇宙空間に生身の人間を見つけます。「不思議な少年」でした。

 

宇宙船の操縦席に座り、ロボット達を惑星におろすよう指示するNX-52136。操縦席の傍らにはサンドラの写真が置かれていました。

 

着陸した惑星では、不思議な少年が待っていた。NX-52136号と少年は、次の惑星まで一緒に航海する事になります。

 

NX-52136号の仕事は、司令塔です。だから、最も大事な仕事は、他のロボット達の仕事を見届ける事です。「氷山があるので自爆します」「硬い岩盤があるので自爆します」仲間のロボット達から毎日のように届く、最期の業務報告。NX-52136号を何十万体もの仲間の最期を聞きながら、淡々と業務を続けます。

 

しかし、淡々と作業をこなすNX-52136号でも動揺する時あがります。少年がサンドラから貰った毛糸の帽子がほつれている事を指摘すると、慌てて、修理をするために編み物用のかぎ棒を作り始めます。それは、毛糸の帽子は、サンドラが他のロボット達と自分を見分ける大切な物だからだそうです。

 

1000年の時はすぎ、NX-52136号以外のロボットが全ていなくなりました。以前までは、何かあると頻繁に送られてきた仲間からのNX-52136への通信もなくなりました。連絡をくれる仲間達は、今となっては、誰もいません。しかし、その甲斐あって、かつては、不毛の地であった惑星には風がふき、川が流れ、空には鳥が舞っています。ある日、NX-52136号は、久々に通信を受け取ります。「仲間は全て壊れたはずなのに?」傍受してみると、驚いた事に、聞こえてきたのは、懐かしいサンドラの声でした。

 

ロボット達が、地球を旅立った時、1000年後のNX-52136に通信が届くよう、サンドラが発信していたのです。懐かしいサンドラの声、必死に呼びかけるNX-52136号。通信の中で、サンドラは自分がすでに寿命が尽きている事を伝え、NX-52136号にねぎらいの言葉と別れを告げます。そして、サンドラが、もう存在していない事を聞いたNX-52136号の体の中から、今まで味わった事のないデーターが報告されます。

NX-52136号は、

「おかしいよ。僕が壊れたわけでもないのに、何だか自分が壊れてみたいだよ…」

その言葉を聞いた少年が答えます。

「それが感情だよ」

感情と言う物を知ったNX-52136号は、少年にある頼み事をします。

―あらすじ終了―

 

 

…と、まぁ、こんな感じでラストへと続いてゆきます。ラストに興味のある方は、ご自身で確かめた方がよいでしょう。

 

正直、久々に読んで、記事を書いているだけでも、若干、切なくなってきます。本当に、私、この物語には弱いです。この物語だけではなく、この本読んだ後は、私換算ですが、いつもより2割増しで、妻に声をかける時のトーンが優しくなります。そして、なんだか、理由もなく家族や身近な人を抱きしめたくなります。こんな感じの内容の話が、結構、沢山載っているんですよ。好きになっちゃいますよ。少なくとも私は。

 

余談ですが、同名の小説で、あのトム=ソーヤの冒険で有名なマーク=トゥエインが書いた物がありますが、筋立ても似ているので、おそらく、こちらの作品を参考にしたのかもしれませんね。(勿論、全く別物の作品ですけどね)

 

ちなみに、マーク=トゥエインの方は、「不思議な少年」の設定はサタンの甥で、そのままサタンという名前の時もあれば、44号と呼ばれている時もあるようです。山下和美先生の方の「不思議な少年」も、キリスト教ベースのお話が多い気がするのは、やはり、マーク=トゥエインの世界観みたいな物を意識しているのかもしれませんね。

 


ザ・ワールドイズ・マイン

これも有名な漫画ですね。

正直、私としては、後味の悪さは、なかなかトップランクに入る漫画です。周辺の友人も、特に女友達からは「生理的に受け付けない」「気分が悪くなる」と批判以前のお言葉を聞かされた漫画です。

 

それ程までに、嫌われる理由も分らないわけでもないですけどね。

まず、画風が苦手という方が案外多かった。作者の新井英樹先生は、他にも「宮本から君へ」「愛しのアイリーン」と名作を生み出している先生ですが、画風は基本的に、それらも「ザ・ワールドイズマイン」も変わりません。

 

・・・っと言うよりも、こちらの新井英樹先生は、かなり社会派というか、人間の剥き身な部分を描き出す事に長けた作家さんだと思うのですので、あんまり、綺麗な方向にディフォルメされた画風でも、何か不自然が残ってしまうような気がするので、私は、この人の作風に、大変、適合した画風なのではないかなと思っております。

 

さて、苦手意識を生み出しても、なお、その絵が似合うと言われてしまう漫画の内容ですが、凄く平たく言うと、二人組の殺人鬼の話です。

あら?ここで、若干、読んでいる人が眉をしかめるのが伝わってくるような気がします。

さらに、巨大熊が沢山人を殺します。

さらに、人が引いてゆくのを感じます。

そして、最後には人類とか・・・、滅びます。

もう、ここで「読むの面倒くさいな」とお思いの方もいらっしゃるとは思います。でも、それが、素直な反応なんですよね。

 

ただ、ここで立ち止まって考えてみていただけると嬉しいのですが、そんな多くの人が、読むのを面倒くさくなりそうな話の上、血なまぐさい描写はてんこ盛り!それでも、未だに、私という一人の人間の頭に居座り続け、一気読みさせてしまうという事自体、この漫画の持っている力を表しているのではないでしょうか。

 

ちなみに、この「ザ・ワールドイズマイン」ですが、映画「バトルロワイヤル」の深作欣二監督が、最後に映画化しようとして、なし得ないまま、天寿を全うされたという意味でも、有名な作品です。深作欣二監督も、やはり、この漫画の力強さのような物を感じていたのでしょうか。

 

さて、話の内容ですが、主人公は「モンちゃん」という正体不明のロングコートを着た男です。そして、もう一人、「モンちゃん」の相棒となる男「三隅俊也」です。そもそも「モンちゃん」には名前自体がなく、この「モンちゃん」という名前自体が三隅俊也が、「モンちゃん」の命令でつけたくらいなのです。そして、ここから三隅俊也を始めとする多く人間が、「モンちゃん」の影響を受けてゆくのです。

 

 

元々、郵便局員として働いていた三隅俊也でしたが、人知れぬ趣味がありました。それは、自分のアパートに籠もり、爆弾を作る事でした。そうは言っても、作った爆弾を使う事はなく、ただ、爆弾を作り妄想するというのが、彼の趣味でした。っというよりも、妄想の中に食いとどめておかなければならないと、三隅俊也本人は認識していました。ただ、「モンちゃん」に自分の隠していた部分を観られ、それを褒められると、三隅俊也の心にあった歯止めのような物が消えてゆきます。

 

そして、「モンちゃん」に引き出されるように、三隅俊也の狂気の部分が、表に出て行きます。この過程は、私の感想を入れてしまい申し訳ないのですが、まるで、惚れた相手に褒めてもらおう、受け入れてもらおうと、必死になり、全てを投げ出し、モラルさえも目に入らなくなってしまう・・・、そんな歪な恋愛関係のようにも見えました。そして、このまま、二人は殺人鬼街道を走ってゆきます。

 

 

以上の「モンちゃん」と「三隅俊也」との詳しいなりそめなどは、物語の構成では、最後の方で振り返って描かれていますが、物語前半は、特に目的もなく北海道を目指して、殺人の旅を続ける二人と、二人の殺人旅行とほぼ同時に北海道に出現し、二人とは反対方向に、人を食べながら南下してゆくヒグマ、この二つの殺人者の動向と、その二つの衝撃に影響を受けてゆく過程を丹念に描いています。

 

ここで、漫画で描かれている「モンちゃん」の殺人の特徴をあげておくと、彼の殺人には「性的な興奮」も「社会や個人に対する憎しみ」も存在しません。あるのは、空腹の獣が腹を満たすかのような、猫がネズミを本能的にいたぶり殺すような、もっと、具体的に言うならば、玄関を出ようとしたら、箒が倒れていて邪魔だったからどかした程度の物なのです。あくまで、「モンちゃん」にとっては、殺しは生活の一風景であって、それは、人間を食いながら南下するヒグマとなんら変わりのない事なのかもしれません。しかし、現代社会の中で生活する人々は、この二組の「自然」に、文化的生活の中で培った多くの物を揺るがされます。それは「理性」であったり、「道徳」「社会性」であったりします。

 

また、その影響の大きさも、諸個人の犠牲者から、地域の噂話、メディアを通して社会への影響となり、その変化は、ついには国家、世界へと広がり、それぞれの持つ狂気を導き出し、今まで、絶妙なバランスで辛うじて噛み合っていた、世界という名の他人どうしの歯車を、絶妙なバランスで軋ませ、ずらしてゆきます。誰も気づかない内に、少しづつ、少しづつ・・・。

 

物語の前半は、時折、登場人物の回想シーンに行ったり、取材形式で「モンちゃん」が大量の重火器を手に入れられた経路を、読者に判明させたりという説明的な場面や、場面がヒグマサイドに移ったりはしますが、基本的に私達読者は「モンちゃん」ご一行の殺人旅行と、ほぼ、同じ時間軸の中で物語りを読み進めてゆく事になります。

 

そして、「モンちゃん」と「三隅俊也」が離ればなれになるシーン以外は、物語前半分の読者の目線は、根本的には三隅俊也に重ねられています。そして、それだけに、「モンちゃん」という人間に、三隅俊也が引きつけられてゆく過程が、「モンちゃん」の特異性とともに描かれています。

 

ここで物語の中で、有名な「モンちゃん」の台詞をあげてみると、

「物事は全て、同じ物差しの上にある」

「俺は俺を肯定する」

「命は平等に価値はない」

よくよく、聞いてみると、現代の考え方と正反対の考え方ですが、ちなみに彼が何故、この言葉を口癖のように言うようになったのかも、作品の後半で描かれますが、それは、興味のある方がご自身で読まれるのがよいかと思います。

 

なにはともあれ、程度の差はあれ、自分の見知った生活から、あまりにも逸脱した世界を目の当たりにしてしまうと、目の前の人や物事に強い吸引力を感じてしまう場合はあると思います。それが詐欺師の作った嘘ならば、詐欺被害者になるかもしれませんし、相手が独裁者ならば、時には知らない間に虐殺の片棒を担がされてしまう事もありえます。

 

三隅俊也だけに限られず、物語の中の多くの人間が、「モンちゃん」の言葉に踊られます。特に、「俺は俺を肯定する」という言葉は、物語の主軸となるキーワードの一つでもります。そして、そうしたキーワード一つで、人々が混乱してゆく過程が、これまでかというくらい書かれている事も、この作品の魅力だといえるのではないでしょうか。

 

この物語は、当然フィクションではありますが、人類をテーマにした一つの思考実験のような気がしてなりません。人間の社会というのは、絶対の悪もなければ、絶対の善という物も存在しないと私は思っています。

 

それは一方で、人間には理由なく人に善行を行う方向性があるのならば、大した理由もなく人に悪行を行う方向性も存在するという事なのだと思うのです。

 

その辺の方向性が、色々な人たちが関わる中で、影響を受け合い、善意の方向性が強く出たり、悪意の方向性が強く出たりとしながら、なんとか帳尻が合って存続しているという言い方も出来ると思うのですが、それが、もしも、そうした人の関わりの連鎖による影響が悪意の方向へばかり強く動いた時、それは、気がついた時には、誰も止められない巨大なうねりのような物となり、全てを飲み込んでしまうのではないか・・・。

 

そんな思考実験の一つを目の当たりさせられたような気がします。激しい悪意に対するディフォルメと同時に、妙な説得感のある作品だったと、私は思いました。


遠野物語

漫画とは少し違うのですが、漫画レベルに面白い本があるので、紹介させていただきました。

私が学生の頃から好きで読んでいた本なのですが、有名な本なので、知っている方も多いかとは思います。


ちなみに、見本の写真は、パソコン版は左側は水木しげる先生の作画をされた「遠野物語」です。そして真ん中は原作、一番右端が口語訳。スマホだと、上、中、下で同じ並び方です。今回、ご紹介させていただくのはこちらではなく原作とされている「遠野物語」の方なんですが、水木しげる先生と柳田国男という組み合わせが、私には尊すぎて、マッチしすぎていたの載せてしまいました。原作の文体を楽しみたい方、ご購入されたい方は、一緒に載せておくので、見てみてください。

 

こちらの「遠野物語」は柳田國男が佐々木喜善の話を取りまとめ、編纂した物です。岩手の遠野地方に伝わる昔話を集められており、その一つ一つの話が短く、その土地の中で口伝で伝えられた物なのですが、岩手の気候も厳しい村落地帯の大変さが滲み出ているような話が多く、読むたびに見入ってしまいます。

 

特に、人間関係に関しては、当時、江戸時代の風潮や文化が、かなり色濃く、かなり保守的な風習も残っており、交通網の発達も行き届かない明治時代では、引っ越しもままならず、生まれた村から出た事がないなんて人も珍しくなかったのかもしれません。そういった環境で、人間関係のもつれが起きる事は、下手をしたら、現代社会に生きている私達以上に恐ろしい物だったのではないでしょうか。

 

そんな遠野物語の中から、いくつか私が気に入っているお話を紹介いたします。

 

昔、黄昏時に表に出ていると神隠しにあうなどという事がよく起こった頃、岩手県遠野松崎村寒戸という場所の民家でも、若い女性が忽然と姿を消した事がありました。梨の木の根元に、きちんと揃えて置かれた草履だけを残して、彼女は消えてしまいました。

 

…それから三十年、ある日、彼女の親類縁者が家に集まっている時、誰も知らない老女が一人訪れます。

 

よくよく調べてみると、確かに三十年前に行方不明になった娘はいたし、調べてみても、どうやら、本当に本人のようだ。家に集まっていた親類縁者は嬉しいやら、驚くやらで、「どうやって帰ってきたのかと口々に聞く」すると、女は「人々に逢いたかりしゆえ、帰りしなり、さらば、またゆかん」と言って、そのまま留まろうともせず、山の方へと消えていった。その婆様が来た日が、風の強い日だったので、それ以来、烈しい風がふく日には、遠野の人々は「こんな日は寒戸の婆がきそうな日だ」というようになったのだというような話です。

 

この話は、ストーリーが二種類あって、佐々木喜善バージョンと、柳田國男バージョンで、

ラストに若干の違いがあったように記憶しています。僕の記憶が正しければ、上記のストーリーは喜善のモノで、柳田の方は、それから毎年寒戸の婆は訪れるようになり、それ度に、村は大風に見舞われるようになり、村落にも被害が出るようになった。寒戸の婆に話しても、本人は村へ来るのをやめようとはしない。困った村民達は、寒戸の婆が村に入ろうとする、村と外との境目に置石をするようになった。それ以来、村に寒戸の婆が来る事はなくなり、村民は臍を撫で下ろした。

 

というような展開になっていたと思います。

 

よく、柳田國男が脚色したのだと言われるエピソードを耳にしますし、実際に手を加えていたのだと思います。

 

実際、柳田國男は若い頃、同人誌に参加して小説を書いたりなど文芸活動を行なっており、当時の文学者ともかなり密接な交流をしているという話も想像力を掻き立てさせられる要因ではあります。

 

柳田國男は、郷土史に名前がある名士や、武士のような支配階級の人間に対して、支配を受ける側の名も無い民を「常民」と呼んだと聞きます。何代もの間、血と汗を地面に染みこませ、最後は土の中へと姿を消してゆき、名前も残らない常民。また、彼は研究の対象として、好んで「常民」を選んだと聞きます。

 

ン十年ぶりで故郷に戻ってきても、嵐を巻き起こしてしまい、結局は疎ましがられ、村人全員に締め出されてしまう寒戸の婆の姿にも、それを追い出そうとする村民にも、何かしら悲哀的アイロニーというのか、柳田國男自身の持つ常民への眼差しのような物を感じてしまうのは、僕だけでしょうか。

 

 

もう一つ、気に入っているというか、若干、恐ろしさを感じる話を紹介します。

「遠野物語」の中には、その土地の中で、当時、残っていた風習なども記載されています。その中の一つに「若葉の魂」という話があります。

 

 

平たく言えば「若葉の魂」というのは、間引きの事です。

もしかしたら、若い方で間引きという言葉を聞いた事がないという方もいらっしゃるかもしれませんので、さらに、平たくして言えば「子殺し」です。

 

主に「子殺し」の対象となるのは、周囲から望まれていない男女関係で生まれた子供や、貧困から来る食糧難によって、奉公や女衒(女性専門の人買い)に渡せる年齢まで育てられないなと判断された子供なんかが間引かれます。

 

この「若葉の魂」という話は、もう少し立ち入って、始末の仕方と遺体の処理の仕方まで買書かれていました。間引き方法は、臼なんかで押し殺すそうです。(臼で、押し殺せるので、かなり小さい頃という事になりますね。その臼、その後も使ったんでしょうか…)それから、遺体を、ある程度の大きさに細断して桶の中に入れて、家内と外を分ける境目のところに埋めるそうです。つまり、人が通る度に、間引きされた赤ちゃんを跨いで、家と外を行き来するという形になります。そして、この状態になると、どうなるかというと、殺された子供は、家を守ってくれるそうです。

 

 

私が、この話を読んだ時の感想は正直言えば「?????」でした。

勝手に気持ち良い事をして、育てられないから殺して、今度は「お家を守って頂戴」、そう帰結する論理展開が、よく分からず、正直、若干の抵抗感や嫌悪感を受けた事を覚えていま

す。ただ、何年経っても、この話に対しての疑問が拭い去れず、事あるごとに思い出していた話です。

 

 

最近の私の捉え方は、この頃の村落地方は、現在の私達の社会で思う以上に、子供を育てられない状況が多かったという事なのだろうかと考えています。計画的に子供を作ろうといっても、当時の農家は家内制工業でした。労働力は子供を作るしかありません。それも、医療もままならない頃でしから、怪我や病死も多かった事でしょう。

 

余分に労働力を用意しなければ、人手が足りなくなって、仕事が立ち行かなくなってしまえば、家族全員が路頭に迷う事になってしまいます。

 

さらに、労働力が過剰になった時や余剰人員を養えなくなった時はどうするかと考えた時、現代ならば、リストラという方法もありますが、当時はほぼ100%家内制工業です。食べさせる事ができないから、他で働いてくれという理論は成り立ちません。ましてや、奉公にも出せない子供ならば、なおさらの事です。しかし、不作の年などに決断が遅れれば、それこそ、家族全員の命が危なくなる場合もあります。そうなると……。

 

 

現代の私達は、選択の誤りといっても、家族全滅に直結する程の事は、そうそうありません。一方、当時の貧農の選択となると、「生き地獄」か「死」かなんて言う、まった無しの選択の場面に晒される事も多かったのではないだしょうか。

 

 

また、望まれない男女関係での妊娠に関しても、当時の狭い集落の村落地帯では、集落に受け入れられない事も、そのまま一族の死に直結する可能性が高いことでしょう。

 

 

こんな理由で、間引きをした時、「はい、切り替えましょう」でスイッチできる人は、そうそういないと思います。子供がいなくなった後でも、日常の延長線上に子供の存在を置いておきたいと思ったとしても、無理からぬ事なのかもしれません。

 

 

以前、寺山修司監督の映画で、東北で仏間の床下から、祖父の遺骨を掘り出して語らうという場面を見ました。ニュース番組で、故勝新太郎氏が、兄の若山富三郎氏が亡くなった際に、お骨を食べた映像が映し出されたのを見た事があります。田舎の方にゆくと、今でも、自分の畑の中に一族の墓を作っているお家も目にします。

 

身近な誰かが亡くなり、その事を、どんな形で受け止めて生きてゆくかという事は、生前の故人との関係も相まって来ますので、本当に千差万別なのだと思います。

 

若い頃、「若葉の魂」の話を読んだ時は、勝手に殺して、勝手に埋めて、それで「私達の為になってください」なんて、ひどい身勝手な話のようにもおもえましたが、今の私は、「自由の制限された社会で、誰かの犠牲がなければ生きられなかい状況にあった人たちなりの、犠牲になった人たちへの葬送だったのではないだろうか…」そんな風に思っています。

 

…とまぁ、こんな感じで、事あるごとに思い出して考えちゃうような話が、結構、載っているんですよ。もしも、興味のある方は、読んでみてください。

 

 


時計仕掛けのオレンジからの~ビブリア古書堂の事件帳

かなり有名な作品ですね。

監督は、「2001年宇宙の旅」「博士の異常な愛情」「シャイニング」などでも知られている。スタンリー=キューブリック様でございます。

「時計仕掛けのオレンジ」自体が、スタンリーキューブリックの出世作の一つでして、かなり有名な作品でして、現代でも色々な作品にネタにされたりしています。

 

有名な所でいえば、西尾維新先生の「続・終物語」のアニメ版で、斧乃木余接(おののきよつぎ)ちゃんが、終盤の方で主人公アレックスが率いる愚連隊、「ドルーク」のコスプレをしていますし、何年か前に月9ドラマにもなった三上延先生の「ビブリア古書堂の事件手帖」でもテーマとして取り上げられていましたね。

 

私の印象ですが、これはスタンリー=キューブリックさんの他の作品にも言える事なのですが、音楽のように映像を作る人なのだなという印象を受けました。

 

「変な事を言いおって!」

とおっしゃる方もおられるとは思いますが、実際の映像を見られたのなら、納得して頂ける方もいらっしゃるのではないかと思います。

 

色彩も役者の動きも含めて、映像がが、小気味よく展開されて、まるで、映像そのものがBGMの役割を果たしているといっても、過言ではないような気がしました。

それでいて、話の本筋は外していないし、常に一定レベルの悪趣味さがキープされていた事は、見る側には、とても、有難かったように感じられました。

 

話の内容としては、非行青年が刑務所に入り、洗脳によって、非社会的な行為が出来ない状態となり、出所するも、娑婆では、敵愾心も何もない彼は、生きる場所どころか、寝泊りする場所さえ奪われる有様となってしまった。

 

まあ、その後、紆余曲折がありまして、本人の気持ちといった事とは、全く別の理由により、再洗脳されて、もとの立派な反社会的な青年に厚生するという話でした。

 

映画全体に満遍なく振りかけられた悪趣味が、中々の味を出しています。

 

内容としては、シンプルなので楽しめました。

見終わった後の、後味の悪さも、いい具合です。

映像も、カラフルで小気味よく、退屈せずに見る事が出来ました。

 

しかし、何故か、それ以上の感銘は受けませんでした。

 

映画の中で、主人公が最初の洗脳を受けた時、「僕は完全に治った」と言っていました。また、一方で、再洗脳をされた時、ナレーションの「これで完全に治ったね」という文句がありました。

人間が社会の中で教育を受けて形作られる以上、何かしらの洗脳は受けざるを得ない。もっと、行ってしまえば、教育と洗脳を明確に分ける事自体が、実際は難しく、結局、問題は洗脳の有無ではなく、所属社会の中で、その洗脳が、適合性があるのか、ないのかという点であって、その部分にて、洗脳を受けている人間の立場も、大きく左右される事になります。

 

こちらの映画を、小此木啓吾(故)さんが、授業で題材として使われていたという話を聞きましたが、確かに、心理学の教材としては、関心の対象となるのかもしれません。

 

この映画自体が、私達の社会そのものが、洗脳で成り立っていて、さらに、自我、規範、道徳といった物の、その社会による洗脳でしかないという、意味を含んでいるとも言えるのではないでしょうか。

 

これが、私の感じた事なのですが、その上で、「そうなんだ…、へ~」というくらいの感想しかもてませんでした。

 

この映画が上映された時は、この種のテーマは、新鮮だったのでしょうが、今現在は、「自我の育成=社会的洗脳」という考え自体は、それ程、稀有な物とも思えません。

 

というのも、現在の日本での状態は、この洗脳の問題が現実の社会問題の中にあり、「時計仕掛けのオレンジ」が上映された時の人々よりも、現在の私達の方が、より、身につまされた状況にあるという事なのだと思います。

「教育=社会的洗脳」「自我=洗脳の賜物」とは言っても、映画の中では、結局のところ、その先の問題が語られていません。 映画の中でも、洗脳をとくために、新しい洗脳をしてと、そんな事を繰り返す状態で終わっています。 この行き詰まりは、結局、現在の私達の行き詰まりと一緒なのかもしれません。

 

その人が所属する社会集団の数だけ、色々な処で、洗脳は行われています。また、時として、それが大きな問題となる事もあります。自我の形成には、洗脳を選択する自由しか残されていないのか、洗脳と自我を切り離す事は出来ないのか、また、本来のアイデェンティティは何処に見出せるのかといった問題などが、残ります。

しかし、結局は、それらに対する答えは、出ていないのです。

 

 

恐らく、有名な作品である筈の、「時計仕掛けのオレンジ」を見た私が感じた物足りなさは、その辺に、あるのではないか、………………………………………………………ってな感じで、昔、この映画を見た時は思ったんですよね。



でも、何年かして、冒頭で紹介したビブリア古書堂の事件帳を読んだ時に、時計仕掛けのオレンジがテーマの一つに入っていたのですが、そうしたら、原作の内容は、映画とは大分違うらしい事が分かりまして。

 

当時、日本で出版された翻訳本も、やはり、映画に合わせた内容だったらしくて、本国で出版された原作に忠実な翻訳本が日本で出版されたのは、もうブームが過ぎた頃だったらしくて、その辺の下りがビブリア古書堂の事件帳に書いてあった時は、正直、驚きました。

 

私は、原作に忠実な翻訳本というのを、まだ、読んではいないのですが、ビブリア古書堂の事件帳に書いている内容からすると、まさに、私が上記で述べた疑問や物足りなさに答えてくれていたようでして、むしろ、完全に削り取られた部分こそが、筆者が一番伝えたかった事なんじゃないかって内容でした。

 

簡単に原作忠実バージョンの方の内容を説明しますと、国の都合で、もとの極悪人に戻った主人公のアレックスですが、国のお墨付きももらい、悪事の限りを尽くして、長い年月を過ぎた頃、しぜんと悪事そのものに飽きて、自分から悪事を辞め、今度は、自分の意志で善良なアレックスに戻ってゆくという話なのだそうです。

 

勿論、「時計仕掛けのオレンジ」の中でアレックスがやっていた悪事は、洒落にならないものが多かったので、犠牲者の事を考えると、「飽きたから辞めたで、許されるのか!」というお叱りの声を聞こえてきそうですが、ここは芸術という事で、一度、モラル的な事を端っこに置いて、物語の主旨、著者が人間性というものを、どう捉えていたかという事を中心に考えてみると、少なくとも、映画のラストよりは、ほんのちょっとだけ合点が行った気がしました。

 

ただ、あの天下の天才監督スタンリー=キュアーブリックが、原作を無視するような作品の作り方をしたのだろうかという疑問が出てきましてね。それも、物語の意味が180°変わってしまうような…。

 

それで他のスタンリー=キューブリック監督の作品を見直して、彼のエピソードなんかを調べてみたのですが、いきついた答えが、これまた「音楽のよう作品を作る人」って事なんですよね。もしかしたら、彼は映画という物を、答えを教える物ではなくて、「感じる物」としておきたかったのかもしれません。(本当、私の勝手な感じ方ですからね)

 

 

スタンリー=キューブリックも原作は読んでいて、その上で内容が気に入って、映画を作ったのだと思うんですよ。ただ、彼の映画表現に、切り取られた原作部分は必要なかった…、むしろ、言い換えれば、「そこは映画のセリフで喋られても、見ている者には何の価値もない事であって、観客が自分の過程を踏んでたどりつかなければいけない場所であって、また、その答えに辿り着かないからと言って不正解とはならない事こそが、映画の素晴らしさなのだ」こんな事を思っていたのかもしれません。(だから、勝手な私の妄想ですからね。キューブリックファンの人、怒らないで下さいよ)

 

確かに、スタンリー=キューブリックは、「シャイニング」の原作者、スティーブン=キングとも、「2001年宇宙の旅」のアーサー・C・クラークとも、映画製作を際に仲たがいしているではありませんか。「シャイニング」では、原作と全く別の作品になって出来上がったという話は有名ですし、アーサー・C・クラークに至っては、泣きながら映画館から出てきたという話まで伝わっています。

 

考えてみれば、作家さん達の仕事は、いかに人間や社会の不条理といった、いまだ言葉があてはめれていない何かに、最適な言葉を探し、人の心の中で、言葉を駆使して物語を紡ぐのがお仕事です。しかし、もしも、スタンリー=キューブリックが、自分の中にあるリズムに従い、音楽を作るような映画を作る監督だったならば、作家さん達の発掘した思いや、一言では言い表せない物は、彼にとってリズムを崩す「邪魔な存在」であって、「個々の客が勝手に考えれば良い」そんな部類の物であり、この仲たがいは、それぞれが一番大事にしている物を映画として残したい、妥協はしたくないという思いから生まれた、避けえない物だったのかもしれません。

 

そう考えると、「時計仕掛けのオレンジ」で描かれる人間性以上に、それに関わる表現者の人間性に興味が持ててしまう作品でした。

 

 

まぁ、どちらにしても「2001年宇宙の旅」「シャイニング」「時計仕掛けのオレンジ」は何れも、映画史に残る名作として残っている事で、やっとこさ、表現者達の仲たがいが、けっして無駄ではなかったという事だけが、言えるのかもしれません。

 

 

…まぁ、単純に考えて、スタンリー=キューブリックの性格や、対人スキルに問題があったという考えもできますが…。そこは、そこ今となっては、伝説の域でございます。


家畜人ヤプー

今回、読んだのは、原作は沼正三先生、画は江川達也先生、出版された家畜人ヤプーです。

「家畜人ヤプー」という作品自体は、とても有名な作品でして、何度か漫画化されております。

江川達也先生以外では、石ノ森章太郎先生とかが有名なのではないでしょうか。

 

ストーリとしては、日本人、瀬部鱗一郎と、ドイツ人クララ=フォン=コト=ヴィッツという一組の夫婦が、突然現れた宇宙船に乗り込み、西暦3970年の未来にタイムスリップするという話です。

 

物語の世界では、すでに女性革命なるものが太古の昔に起きていて、完全な女性優位社会。その上、白人だけが人権を持ち、黒人には半人権が与えられ、日本人(ヤプー)は知的家畜と位置づけられ、遺伝子操作、生体加工、徹底した精神教育などにより、食用、家具、娯楽用小人、便器、高性能性処理機などに作り変えられ、市場で売り買いされているという社会です。

 

ヤプーの中でも、特に知的レベルの高い物(厳密には確かIQ170以上だったと思う)は、高級品としてテレパシー能力を与えられ、主人の排便欲求や、性欲に反応して相手の欲求に応えられるように改造され、一方、特殊能力の代償として、高級ヤプーは個我や、自意識といったものを殆ど失う事になります。

 

しかし、IQ170以上のヤプーは、それを至高の喜びとして咽び泣くのです。なぜなら、白人の女性が最も崇高な神だとして、教育されるからです。

「うん、狂った世界だ!」と、つい膝を叩いてしまう世界です。

 

この漫画のいかれっぷりは、勢いを止める事はなく、例えば、ヤプー便器なるものは、生まれる前から体をいじくられ、片肺を切り取られます。理由は、少しでも、白人の便を体に取り込めるようにする為です。勿論、便が通る喉も、遺伝子操作で、予め、配水管のように長くうねるようにつくられます。

 

そして、七歳までに一般的な常識を終え、そこから、専門的な便器としての教育を受ける事になるのです。

 

ここで、便器になる為の教育というのが気になりますね。具体的な授業内容も書かれていたので、ちょっとだけご紹介いたします。

 

それ専用の、人造人間のような物を使い、どんな長い大便でも切らずに、全てを飲み込めるように訓練させられるそうです。便を飲み込む動機付けをばっちりで、便器用の福音書なるものを毎日読み聞かせられるようでして、その福音書の中には白女神(白人女性)は一日三回の恵と、十二回の好意を示してくれると書かれているとの事です。

 

つまりは、一日三回の排便と、小水の事ですね。(なかなか健康的なペースですね)

そして、これらは、神様からの贈り物なので、全て残さず食すよう教育されます。さらに、神様のお尻を何度も、舐めるのは失礼だから、一度で舐め取る練習もちゃんとします。そういうカリキュラムが組まれているようです。

 

ちなみに彼らの教育係は、数千年後の黒人、黒奴という事です。ちなみに、この世界では、黒人はヤプー(日本人)よりは、一つ上の階級の「半人間」という立場のようです。この辺の内容を見ても、よくも、まぁ、原作小説を出版しようと踏み切れたものだと、心の中から感心します。

 

話の流れをもう少し詳しく追うと、麟一郎が未来人の犬にかまれ毒が体に入ってしまい、その解毒剤を取るために遥か未来の白人世界の本拠地「惑星イース」に向かうという話なのですが、惑星イースに近づくにつれ、鱗一郎も少しづつ体に加工を施され、人間ではない「物」に改造されてゆきます。

 

そして、クララに助けを求める麟一郎ですが、イースの文化に触れるにつれ、次第に、クララ本人も、つい数時間前までは恋人として愛し合っていた鱗一郎を家畜としてみるようになってゆき、一方、鱗一郎も円盤の中に当たり前のように置いてある、尻の穴にノズルが差し込まれた女性用ダッチワイフだとか、人気ペット、ヤプー犬に対して妙な共感を覚えるようになってゆきます。

…そんな、二人の関係が変わってゆく過程が、淡々と、そして、残酷に描かれてゆきます。

 

原作も有名な本なので、原作小説についても、少しご紹介します。

原作は、「ドグラマグラ」と並んで戦後最大の奇書とも呼ばれているそうですが、私の印象としては、ドグラマグラと比べると内容的に大分違うのではないかとも思います。

 

ジャンルとしては、マゾ小説に分類される事も多いですが、歴史パロディという一面や、単に物語としてのディテールの細かさも、生理的な不快感を飲み込める人には面白いです。

 

原作は戦後間も無く、SM雑誌に連載されていたようですが、しつこい自主規制やら、物語の後半で描かれる日本の歴史を材料にした話で、右翼からもかなり叩かれ(そりゃ、そうでしょう)、その後、十年の連載を経て、結局は未完のまま断筆する事になったそうです。それでも五百ページの長編小説です。これだけの内容を、延々と500ページ書いている原作者も凄い精神力ですね。そして、その後、ヤプー完結品なるものが、出版されましたが、それも加筆され600ページの大作となったそうです。

 

作者の沼昭三先生の正体自体が、はっきりしておらず、自薦他薦を問わず、沼昭三正体説が流れた人自体が、元判事の倉田卓次、小説家の三島由紀夫、天野哲夫、澁澤龍彦、武田泰淳、日本歴史学者の会田雄次、文芸評論家の奥野健男と、そうそうたるメンバーが名前を連ねており、共同執筆説などもありますが、今となっては、真実を知る術もなく、ただ、作品とその歪な影響力だけが確実に残されている…、そんな作品と言えるかもしれません。


夜叉烏

今年の429日に亡くなられた荻野真先生の作品です。

荻野真先生というと、「孔雀王」が代表作として挙げられるのでしょうが、その他にも多くの名作を生み出している方です。

 

孔雀王自体は、私も子供の頃から読んでいたので馴染み深い作品でありましたし、とても面白くて、何よりも、お坊さんが印を結んで妖怪や、悪い神様と戦うというシチュエーション自体、当時はかなり目新しかったと思います。

 

「孔雀王」が名作だという事も踏まえた上で、個人的には、あえて「夜叉烏」を最初に推したい所です。

 

「夜叉烏」の連載が、ヤングジャンプで始まった頃は、孔雀王連載終了から、数年が経過し「退魔聖伝編」「曲神記編」と連載再開していたあたりだったように思います。

 

もともと荻野真さんのもつアメコミ×宗教のような、独特の世界観は、好きだったのですが、すでに孔雀王は全巻読破しており、私自身、お坊さんの妖怪退治に飽きがきていた頃でした。

 

勿論、「退魔聖伝編」「曲神記編」も読んでおりましたが、連載が長引き、主人公の孔雀が、かなりの真面目キャラになってしまっていたという事もあり、読者としては、もう少し「新しい切り口」を欲していた頃だったのです。

 

そんな折に出てきたのが「夜叉烏」の主人公、那智武流でした。

孔雀王の時に確立したアメコミ×宗教の形式を使い、今度はアメコミ×神道という形で作

品として成立させたとも言えるかもしれません。

 

「孔雀王」の作品発表時期と照らし合わせると、丁度、孔雀王と八百万の神々との闘いを描

いた「曲神記編」の前後あたりかと思いますので、おそらくは孔雀王の執筆時、もしくは、

取材時に併行して、試験的に作った作品なのかもしれません。試験的という言葉を使いまし

たが、面白さという点では、神道をメインに置いているという真新しさもあり、私は十分楽

しむ事ができました。

 

「夜叉烏」の主人公の那智武流の冴えない私生活も、初期の孔雀王を思い出させる所もあり、好感が持てました。

また、荻野真先生のアメコミ要素なのですが、アイテム一つとってみても、神道と相性が良かったのではないかと思います。例えば、孔雀王で孔雀が武器にしていた独鈷杵という仏教用の法具がありますが、「夜叉烏」の場合は、烏神剣という直刀や鏡なんかになります。この時点で、神秘っぽさも出て、アメコミヒーロー得点アップという感じです。

 

コスチュームも孔雀王は、お坊さんの法着なのに対して、夜叉烏はバットマンよろしくの烏を模した黒いボディスーツとなります。そして、孔雀が九字をきり、印を結ぶかわりに、夜叉烏は祝詞を口にしたり、掛け声をかけたりして、烏神剣を振り回します。この辺は神楽のようなイメージで描いているのでしょうが、そんな風にして敵だろうが、近くの空間だろうが、剣で切り裂けば、「常世」という虚無空間(まぁ、あの世みたいな物と思ってください)に吸い込まれてしまうのです。

 

こうした攻撃のパターン一つをとってみても、「夜叉烏」の方が、アメコミ方面に傾倒しているような気がします。逆に言えば、私が「夜叉烏」を推してしまう理由も、「恰好が良い」からなんですよね。

 

また、私の勝手な捉え方なのかもしれませんが、孔雀王と夜叉烏は、一連の繋がりを感じざるを得ないのです。わかりやすくいえば、「孔雀王」「孔雀王退魔聖伝」(「夜叉烏」)「孔雀王曲神記」という並びのような気がしてしまいます。そうした意味でも、孔雀王を荻野真先生の代表作として読むのならば、一緒に「夜叉烏」も必要なのではないだろうかという、勝手な思い込みも、私の「夜叉烏」推しの理由の一つと思っていただければうれしいです。

 

さて、「夜叉烏」のストーリですが、こちらは大きく四つに分ける事ができます。

     荒魂退治編/13

怨念を持った人の魂は、死んだ後、荒魂となり、生きている人に災いを成し、不幸な荒魂を増やし続けます。主人公、那智武流は、由緒ある熊野真宮の神主で、(熊野神宮ではない)はるか昔から荒魂を常世へと送り続けている一族の現当主、夜叉烏です。主人公の設定は、一応、三流大学を卒業後、就職につけず、実家の神主に収まったと、表向きでは通っているという設定です。

     夜叉烏蘇生/3巻終~5

荒魂退治編の最後で、死んで数年後に蘇生して、那智武流は不死の夜叉烏となり、いっぱしの死の管理者として生まれ変わります。そして、死霊達が口にする「おやかた様」という相手を探しながら、死霊達との闘いを繰り広げます。

     穢土編/5巻終~9

物語の中では、最も、多いページ数を使っている場所です。

舞台は二次大戦前の昭和の日本。丁度、226事件の辺りになります。そして、大戦前の日本から今度は、ちょっとだけ現在とは違う東京新宿歌舞伎町へと移ります。(この辺の舞台の移り変わりは、実際に漫画を見た方が分かりやすくて良いと思います)

現代の日本のように描かれていた歌舞伎町ですが、物語の後半で死者の妄想が作った町だという事が判明。この編で、夜叉烏がどういう性質の物なのかという事が描かれます。そして、主人公那智武流は、本当の現在の日本へと向かいます。

     幻都霊戦編/10

舞台は現代の日本に戻ります。

戻ってみたらびっくりです。日本は、人に死を与える事ができる夜叉烏が、腐ろうが飢えようが死ねない民衆を支配している、そんなマッドマックスのよう世界になってまいした。ちなみにスローガンは「死にたければ那智様に従え」です。

この支配者として君臨している那智が、色々な事件の黒幕の死霊の王でして、夜叉烏で

ある那智武流君の力が欲しかったのだけれど、この世の理で、死の管理者たる夜叉烏(那

智武流)は、一つの時代に一人という鉄の掟があったので、仕方なしに、那智君を二次

大戦前に飛ばして、本物の那智君がいない間に、那智君のお父さんの死体に憑りついて、

死霊を集めてクーデターを起こして、生者の世界を奪い取ったというあらましのようで

す。しかし、那智君が戻ってきてしまいました。同じ時代に二人の那智君は存在できま

せん。どちらかが消えなきゃいけません。さぁ、どうしましょう!

 

 

さらりと書くとこんな流れです。

細かい所は書いておりませんので、気になる方は、どうぞご自身の目で読んでみてください。

 

あらすじを簡単に追ってみましたが、

「まぁ、舞台がよく変わること、変わること…」

こういうストーリーラインが苦手な方は、一回、読んだだけだと、少し混乱させられてしまうかもしれませんね。

 

また、前文で「試験的」という言葉を使いましたが、伏線の回収よりも、物語の勢いの方を優先している印象は、部分部分で見られますが、それを差し引いてもこの物語が持つ「突き進むパワー」は必見だと思います。

 

何より、荻野真先生なりの日本社会での死生観の変遷への考察が文学的に描かれていて、それが、私にとってはとても面白く、こういった類の事は、結構抽象的な表現になりやすいので、論文とかよりも、こうした物語の形の方が表現しやすいのかもしれないな…、などと一人納得してしまいました。

 

 

あと、もう一つ言える事は、漫画の描写を見てみると、さすがに、青年誌でも現在連載するのは、ちょっと引っ掛かるんじゃないかな?という点がいくつかありました。

 

首は飛ぶは、切断された足にナイフの柄を突っ込んで蹴りにいったり、ふたなりのお姉さんはやられちゃうわ、殺されちゃうわ、着物のお嬢さんは脱がされて、○○〇〇を食いちぎられそうになったりなんてシーンが結構ありました。

今から思うと、昔は規制の緩い時代だったんだなと、改めて感心させられます。


ファブル

映画の公開が近づくと、バラエティ番組なんかで、普段は出演していないタレントさんが特別ゲストとして出演するなんて場合がありますよね。

そう、いわゆる「番宣」という奴です。

 

最近、その「番宣」に乗っかり、「ファブル」を見てきました。

どの「番宣」に惹かれたかですって?

そりゃあ・・・、私は根本的には、わかりやすい好みと性格を持った人間ですので、テレビでご覧になった人も沢山いるかと思われる、例のあのシーンです。

 

主演の岡田准一君が台所のすみにいる「とある虫」のように壁を、やたらと滑らかに上る、シーンです。実際、ちゃんと見てきましたよ、人間とは思えない、Gを彷彿とさせるような動きでした。なんなら「Gショック登方」と、新たな名前すらつけてあげたいくらいの代物でした。テレビの番宣では、シーンの一部を切り取っていたという事もあるのでしょうが、実際に大きな画面で、物語の繋がりのなかで、壁を登り切るまでを見ると、番宣の映像よりも、数段早く、滑らかに登っているように感じました。あの動き、スタントマンを使わずに岡田准一君本人がやっているらしいですね。

凄いです。

 

新作映画の紹介番組のインタビューを聞いてみると、「最初から撮影にスタントマンがついていなかったわけではない」のだそうです。一応、スタントマンがやってみて、不可能なので岡田准一君に任されたという流れのようです。インタビューでは、スタントマンさんは「三歩目が出来なかった(壁)」と言っていたようです。

 

結局、三歩目の壁歩きは、岡田准一君もできず、軽く命綱用のワイヤーで体を引っ張ってもらって撮影は成功したようです。

 

内心、「それなら本人がやらなくても、ワイヤーつけてスタントマンがやっても一緒じゃないのか?結局、岡田准一君本人が、体を使う撮影をしたいってのもあるんだろうな・・・」などと思ってしまいますが、その辺は、色々な営業的な関係もあるのでしょうと、一人納得して映画を見続けました。

 

それにしても、スタントマンが出来なければ、次は出演者本人がやるっていう順序自体も、そう言われて、それが出来てしまえる身体能力も、驚きに値するというか、役者やアイドルにそこまでの身体能力が必要なのかという疑問・・・、さらに言えば、「岡田君、君はこれからどこに向かっていくつもりなんだい?」という根源的な問いにまで行き着いてしまいそうな壁走りでした。



さて、この映画は、壁走り以外にも、ちゃんと魅力のある映画でして、もともと原作は、ヤングマガジンで連載されていた漫画作品でして、原作の印象としては、ハードボイルド人情ギャグ漫画といったところでしょうか。ちなみに見本の映像は原作の方の「ファブル」です。


原作も人気の高い作品のようでして、今回の映画も、原作ファンの期待を裏切らないよう、なるべく原作に忠実に作る方向性で作ったそうです。そのせいもあって、出演者も漫画のギャグが、映像でも成り立つよう表情を作ったり、動きを意識しているのが見ていても分ります。そこも見所の一つなのでしょう。

 

実際、映画を観ていると漫画が原作なので、そこに表情を合わせようとしたため、いくらかオーバーアクションになっているような面もありましたが(故意の部分も含め)、それらのシーンひとつひとつはコメディとして面白く見る事ができました。

 

あと個人的な趣味で言えば、私は、綺麗な人がコミカルな演技をするのを見るのが好きです。これも所謂ギャップ萌えというのでしょうか。岡田准一君のパートナー役として出演していた木村文乃さんの演技は、そういった、私と同じような嗜好の方には、なかなかの見物なのだろうな。と思っております。

 

立ち回りのアクションも、敵役として共演している福士蒼汰君が、なかなかの身体能力でして結構楽しむ事ができました。さらに、醸し出す雰囲気もいい感じに「胸がむかつくサイコゲス」を演じてくれていたので、躊躇なく主人公側に感情輸入して見る事が出来たのが嬉しかったです。

 

さらに付け加えると、敵役の一人として出演している向井理さんが良かった。

正直、今まで、あの人、ドラマや映画でいわゆる「いい人」「純粋な人」キャラが多かったじゃないですか。

 

今回、演じた役は、なかなかのくず野郎だったのですが、合間合間で、かなりいい表情を見せてくれるんですよね。姑息な思考、何処までも低いモラル、軽薄な人間性、際限なく膨らんだプライドと万能感、自分の内面に対しては異常な程過敏だが、他人の痛みに対しては、何処までも鈍磨している。そんな印象を見ている人に与える表情でした・・・。

 

あれが、全て演技なのか、いくらか本人の性格も影響しているのかは分りませんが、勝手ながら、私は向井理さんに「ああ、この人、明らかにこっちの芝居の方が向いている人だわ」という感想は持ちました。

 

映画全体の印象としては、エンターティメント作品として仕上がっているなというものでしょうか。ただ、若干、残念なのは、長く連載されている漫画が原作であって、原作に忠実にしようとした事で、「長い物語の一部分を切り取った」感が否めなかったという所でしょうか・・・、ただし、この問題は難しくて、そういった印象を持たれないように2時間の映画の中に納めようとすると、どうしても、途中で話しを切り詰めたり、ストーリーラインや、なんならプロットまで変えなければいけなくなってしまいます。そうなると、原作に忠実という最初のコンセプトから離れてしまいます。

 

そう考えると、原作の一部分だけをはっきりと切り取った作りは、逆に潔いという印象も受けます。私のように「話の途中感」を感じてしまった人は、原作の続きを読むか、映画の続編を待つのが良いかもしれません。

 

何にしても、私が感じた「話の途中感」も、あくまで「まぁ仕方がないな」と思えるレベルなので、映画全体の感想に支障がある程のものではなかったと思っています。私は、今回の「ファブル」は、観て損の無かった映画だと思っております。

 

正直、最近、映画館から足が遠のいていたんですよね。

だって、ノーマルな状態で映画館に行くと、映画代て、高いじゃないですか。

 

まぁ、実際の所、私もノーマル料金で映画を見に行く事は少なく、多くの場合、「レイトショー」「映画の日」「ポイントカード」「映画割引チケット」「携帯契約での割引」などを使っていはいるのですが、仕事の忙しさなども相まって、DVDやネット配信なんかですます事が多くなっていたのですよね。

今回、「ファブル」を観た帰り道で、これからは、また料金やら時間の調節やら、少し映画館に通えるような工夫を、今までよりも、少し多めにしてみようかなと思いました。

 

なぜなら、「金額が高いから」「時間がないから」という理由で、あの映画館の世界観、調整された音響等を諦めるのは、もったいなさ過ぎる気がするんですよね。

そんな事を考えてしまったという事は、「ファブル」って、面白い作品だったて事なんでしょうね。

 


ふじた(必殺仕事人)


と言えば、「まこと」です。


すでに亡くなられてから、だいぶたたれていますが、


藤田まことさんは、やはり素晴らしい俳優さんだと想います。


特に「必殺仕事人」は子供の頃から大好きでして、今でも、時折、欲望に


勝てずにレンタルしてしまいます。


つい最近も性懲りも無く借りてしまった必殺仕事人。


これがまた、たまらなく良かった。


話の内容としては、仕事人と呼ばれる殺し屋同士の勢力争いが主軸となっているんですが、その中で描かれる、芦屋雁ノ助と研なおこ演じる、仕事人夫婦などの、サブキャラがいい味を出しているんです。


 


やはり、仕事人の面白さの要素としては、魅力的なサブキャラというのはかかせません。


 


そして、忘れてならないのが、泣く子も笑う婿養子、中村主水。


家では、姑と妻にいびられ、勤め先の北町奉行所では、上役から昼行灯と罵られる八丁堀同心。しかし、一度、闇の世界に身を投じれば、剣は一刀流免許皆伝、「八丁堀」の呼び名で知られる、凄腕の仕事人。


 


悪が悪を討つというコンセプトを持つ、この物語の主役としては、申し分の無いダークヒーロー。


 


悪徳商人には、裏木戸に回り、袖の下を要求し、


仕事人対抗勢力と一騎打ちをする時は、仲間にも内緒の内に、沼に潜水艦を作り、自分の逃げ道を確保。


普段は、昼行灯として、力の抜けた仕事をもっとうとしているにもかかわらず、いざ、自分の正体がばれそうになると、半狂乱となり女性も男性も関係なく、独断で拷問、ついでに、とめに入った上司もぶんなぐる。


 


自分の保身の為には、なりふり構わず全力で当たる中村主水。


そのダークヒーローぷり、素敵です。


 


そして、何より、そんな主水が、若い頃、ほれていた女性を忘れられずに、その女性の仇を討とうとしたり、闇で稼いだ金を妻と姑に渡す為に、わざわざ、見つかりそうなへそくり場所を造り、二人にへそくりを見つけてもらう事で、二人に叱られながらも、怪しまれず、闇の金を家に入れようとしている姿は、涙ぐましいものがあります。



 


当時、同心は、将軍家直属の家来である御家人との位置づけはされていましたが、その実は、お目見え以下の扱いであり、さらにお役目も更新制度を取られていて、更新時に、お役の継続を申し渡されなければ、明日の仕事も覚束無い身の上だったと聞きます。


 


彼らの禄高は低く、禄高だけで生活する事は難しく、


さらに、不定役人とはいっても、御家人ですので、それなりの体裁は整えなければならず。ご近所付き合いや、養育費にかかる金額は馬鹿になりません。


付け加えれば、時代劇に出てくる岡引は、全て、同心のポケットマネーから、その賃金が支払われており、手下に与える金銭も馬鹿にならなかった筈です。


 


手先の起用だとか、商売の才能があるというのならば、それなりの副業も見つけられた事でしょうが、これが、「人殺しが得意」な人となると、話がややこしくなります。


 


もしも、戦国の世なら、それでも、手柄首を挙げれば、それなりの出世は出来たかもしれませんが、残念ながら、中村主水のいた時代は、すでに戦国も遠き太平の御世です。


 


剣術指南役になれるような一部の者を除けば、中村主水のような選択を選ぶ者もいたのかもしれません。


 


 


貧しい町民が、理不尽に踏みにじられ、その恨みを金に換えて、殺し屋に頼み、殺してもらう。


殺すのも悪なら、殺されるのも悪、そして、殺しを依頼する時、依頼者も悪となる。


まさに、悪のスパイラル。地獄道。


 


そんな物語の中で、


八丁堀同心中村主水玉五郎が、単なる殺し屋ではなく、晴らせぬ恨みを晴らす「仕事人」を副業と選んだ事に、一欠けらの、同心としての意地のような物があったと思いたいついこのごろです。




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プロフィール

manga2525

Author:manga2525
漫画、映画、アニメ、ドラマ大好きです。
すっかりメディアにはまり、きっと、その筋の業界の方には、
私はなかなか良いお客さんなのだと思います。
でも、いいんです。よくよく分かっている事ですので、…というわけで、一人でテレビや本みてほくそ笑んでいるのもなんなので、人前で語ってみようと思い始めたブログです。

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