ダンベル何キロ持てる?(1話目感想)

こちら現在、裏サンデーというネット漫画に連載中の漫画をアニメ化したものです。

スポーツジム通いに焦点を当てた…、っというか、ジム通いの中でも筋トレ。それもボディビルダーを目指す方向の筋トレに焦点を当てた漫画のようですね。原作者の名前は、サンドロビッチ=ヤバ子さんとなっております。この方、同じネット漫画の中で、「ケンガンアシュラ」という格闘漫画も描いており、そちらも、今季は、WEB放送でアニメ化されるそうでうです。一気にブレイクしてきている方なんでしょうね。

 

主人公は、食べるのが好きすぎて、最近、体形が気になり始めた女性高校生、紗倉ひびきちゃんです。アニメ開始冒頭から、たこ焼き、カレーパン、焼きそばパンと栄養摂取を欠かさない育ちざかりの女の子ですが、年頃なので彼氏も欲しいが、このままでは彼氏などできようはずもない。

 

…てな訳でダイエット開始、「当初はお金を使わずに…」と思っていたけれど、運動習慣ゼロのひびきちゃんは、早々と挫折、三日目にはスポーツジムの見学を決意という始まりです。

 

ここまで見ると、自力を諦めて、ジムに通おうとする所が「ひびきちゃん偉い」と褒めてあげたくなりますね。親戚の子にこんな子いたら、「これで良質なプロテェインでも買いなさい。いいから、いいから…」と言って、お小遣いの一つでもあげたくなります。

 

ちなみに、ここでひびきちゃんのビジュアルをご紹介しておきますが、一言で説明できます。「ギャル」です。ただ、行動の一つ一つは、けっして遊んでいる子の言動とは思えないので、ファッションギャルというか、外見はギャルだけど、中身は純朴な女の子という、現在、若い子からおっさんまで、かなり広い層から求められている人材と言えます。

 

そんなに頑張ってダイエットしなくても、こんな風に素直な子なら、クラスの中に一人や二人くらい好意を持ってくれる男の子がいそうなんですが、ギャルというファッションが、普通の男の子達にとってのハードルを上げさせてしまっている所、また、純朴+ギャルというギャップ感を効率的に使えていない…、それどころか、そんな物が効果的に使えるなんて考えてもいない。そういう点も含めて出来上がったのが、この紗倉ひびきちゃんという女の子のキャラクター設定なのでしょう。その辺の擦れてない感じは、見ていて好感が持てます。

 

ひびきちゃんが選んだスポーツジムが入会費無料キャンペーン中の「シルバーマンジム」です。そして、その場には、もう一人入会希望者がいました。なんと、ひびきちゃんと同じ学校の生徒「奏流院朱美」さんです。ビジュアル的には黒髪長髪の清楚なお嬢様っぽい出で立ちです。

 

二人が入会説明会に行った「シルバーマンジム」は、ダイエット、美容というイメージからは大分離れた、ゴリゴリの筋トレ系のジム。勿論、ひびきちゃんは、早々に離脱を決めるのですが、ここで黒髪清楚のお嬢様「奏流院朱美」が実は、かなりの筋肉フェチだった事が発覚。しかし、異変に気付いたひびきちゃんがジムから離脱しようとした時に現れたのが、爽やかイケメンインストラクター街雄先生。ひびきちゃんのど真ん中ストレートに一発鋭いのが入りまして、ひびきちゃんも入会決定という運びとなりました。

 

そして、いざ、入会、トレーニング開始。

まぁ、内容はベンチプレス説明やスクワットの説明や、鍛える筋肉の説明ですね。その間、説明のビジュアルには奏流院さんの露出が高くなり、小さな喘ぎ声もついて、少年漫画必須の微エロもちゃんと加えられております。この辺は、なんせ母体が少年漫画のサンデーですからね。抜かせない所なんでしょう。

 

それでもひびきちゃんなりにトレーニングをかんばるけれど、どうしても経験者の奏流院さんと差をつけられてしまいます。若干の落ち込みを見せているひびきちゃんに、待雄先生の優しい声、顔だけではなく、心のイケメンの待雄先生!今日もぐらりと心を揺らがされまくるひびきちゃん。

疲れ切ったひびきちゃんに、待雄先生の優しいアドバイス。

「…再度、挑戦すればいいよ」

それがいけなかった。

「再度…、さいど、サイド…、サイドチェスト!(ボディビルダーのポージング)」

そう叫んで待雄先生がポージングを決めると、同時に、待雄先生のジャージがはちきれて、鍛え抜かれて筋肉が咆哮をあげた。限られた骨格に所せましと、バンプアップした筋肉がぎゅうぎゅうに敷き詰めされていて、その上に取ってつけたように、待雄先生の甘いマスクが添えられている様は、まるで不出来な合成写真を見せらているようだった。

 

…てな感じの軽いショック映像を見せられ、家路に帰るひびきちゃん。

帰り道では、やはり、ひたすら口に何かを入れているひびきちゃんを見て、奏流院さんが一日の食事の回数を聞く。その答えは間食を入れて計6回程度。

 

ひびきちゃんが、そう答えると奏流院さんの目が光る。怒られると思いたじろくひびきちゃん。ところが、近寄って、ひびきちゃんを誉めまくる奏流院さん。

「食べられるのも才能。あなたは金の卵よ。私と一緒に筋肉道をめざしましょう。いつか最高のムキムキになるため」

即座に答えるひびきちゃん、

「嫌だよ」

危うし、ひびきちゃん。ムキムキへの道を歩まされてしまうのか、彼女は本当に適度なシェイプアップボディで留まれるのか…続く。

 

一話目は、こんな感じの話でした。

感想としては、上手く抑える所を抑えてつくってあるなという印象です。先に書きましたが原作者のサンドロビッチ=ヤバ子さんの他の作品で、ケンガンアシュラという格闘漫画がありますが、それも、やはり、きちんと格闘物のストーリーのセオリーのような物を捉えているように思えます。だから、私が、サンドロビッチ=ヤバ子さんの作る作品に対して思う事は、ギャグだろうが、シリアスだろうが、とてもシステマチックに作られているなという物でした。

 

例えば、「ダンベル何キロ持てる?」もギャル風な女の子と、黒髪長髪で真面目そうな女の子を組み合わせたというのも、外見的に対照的なキャラを軸において、見ている人を引き付けるという効果を狙っての事なのでしょう。また、女の子の性格を、真面目そうな女の子を筋肉フェチという、見ている人たちから若干異質なキャラクターに設定して、一方、ギャル風の女の子を、体形を気にしつつ食べる事が好きで、運動しようとしても根気が続かないという、見ている視聴者に近い性格に設定している点なのは、さらにもうひと回転させて、女の子の性格そのものも、本人の外見の持つイメージとは違った物を設定するというのも、意外性を狙った物なのでしょう。

 

「ダンベル何キロ持てる?」の場面設定は、運動というジャンルのフィットネスジムの中の、さらに筋トレという一作業がテーマとなります。ある意味、マニアックな方面への枝分かれしていくベクトルの作品といえ、その時点で意外性はあり、その上、フィットネスのハウトゥー本のという側面があります。こういった場合、わりと、「テーマ設定とハウトゥー内容だけ、ちゃんとやっていればいいや」となりたいところですが、ちゃんとギャグ漫画、萌漫画のセオリーを使っていらっしゃいます。

 

こういった原作の油断のない所を見ていると、わりと期待できるアニメなのかな~とも思って期待しております。


ドリフターズ

アニメ放映なんかもあって、有名な作品になっていますね。こちらの平野耕太先生は、「ヘルシング」も有名ですよね。私、この人が書く、キャラクターの「目」が好きなんですよね。鮫の目をそのまま人間にくっつけたようで、だけど、茶目っ気もあって、つい見ちゃいます。

 

私も、「ヘルシング」と「ドリフターズ」以外は知らないんですが、この方の作品を見ていると、何処かにサムライっぽい物が出てきますね。ヘルシングもイギリスのお話と思いきや、「島原流抜刀術」なんて言葉が出てきますし、(あまり聞いた事のない抜刀術なので、おそらく、名前は、平野先生の創作なのだとは思いますが)「ドリフターズ」に関しては、主要な登場人物が、サムライですからね。

 

読者のニーズだとか、話が作りやすいだとか色々と理由はあるんでしょうけれども、こういう選択肢って、やっぱり好きじゃなきゃ選ばない物なのだろうなと思います。かくいう私も、ああいうサムライの使い方大好きです。サムライもの、異世界…、中二設定という言葉が当てはめられてしまうのかもしれませんが、基本的に、「中二設定は面白い!」と私は思っております。

 

物語って、あんまり設定をリアルにしようと頑張っても、読んでいる方が面倒くさくなるくらいで、実は面白くなかったりする事もあると思うんですよ。何も時代考証見たくて時代劇見ているわけじゃないですからね。歴史が知りたいなら「歴史読本」飛んだり、NHKの「歴史秘話ヒストリア」とか視ますからね。

 

 

それに、人間の選ぶ物って、十代までの若い頃に惹かれた物と、そう大して違いはないような気がするんですよね。そう考えると「中二設定が好きで何が悪い」とは思います。ちなみに、私は、所謂、中二設定だけではなく、恋愛物(少女漫画風)や、韓国ドラマ風設定とかも大好きですけどね。

 

 

ちなみに、「ドリフターズ」のどの辺が、私の好きな中二設定かと申しますと、まず、歴史上の有名人が一同に介して戦うんですよ。それも「漂流者」(ドリフターズ)と「廃棄物」(エンズ)という二つの立場に分かれて、その時点でも、かなり、私の中二心は、くすぐられてしまいます。例えていうならば、子供の頃、友達と話していてこんな会話をした記憶はありませんか?「呂布と宮本武蔵が戦ったら、どっちが強い?」「キン肉マンと、ケンシロウだったら?」実在の人物か、空想の人物は関係なしに、想像力と好奇心だけで繰り広げられる先走り会話といえるでしょう。

 

 

なんやかんや言って、この「先走り会話」って、物語を生み出す根幹にあるのではないかと思ってしまいます。さらに、物語上ヒール側になる「廃棄物」は、みんな何かしらの超能力を持っていて、スタンダードなスペックで言えば、ベビーフェイス側の「漂流物」よりも、「廃棄物」の方がわずかに高いというのが、また、そそるわけなんですよ。

 

具体的なストーリーは、先の文章にもあるように、歴史上の人物の中で非業の死を遂げた人なんかが、異世界に、飛ばされるという話なんですよね。飛ばされると言っても、別に気が付いたら、異世界空間に投げ出されているというのとは、ちょっと違っていて、「漂流物」と呼ばれる人達も、「廃棄物」と言われる人も、それぞれ、案内されて異世界に来ているんですよね。

 

案内してくれている人たちも、「漂流物」側と「廃棄物」側の二人がいて、この二人が仲悪そうなんですよ。まだ、二人がどういう関係なのかも明かされていませんが、その辺りの設定も、今後の展開が気になります。

 

「漂流物」と言われる人達も、わりと沢山いるんですが、物語の中枢にいるのは、島津豊久、織田信長、那須与一の三人です。特に島津豊久は、物語の主人公でもあって、なかなか狂気を孕んだキャラクターになっております。

 

この島津豊久、関ケ原の合戦で出陣しておりまして、物語の冒頭では、戦況が絶望的な中、叔父様を逃がすために戦場に残り、大怪我を負ってしまいます。そして、山野を彷徨っている内に、異世界へと運ばれてしまいます。

 

ちなみに、歴史上では、どんな人間かと言うと、関ケ原の合戦で討ち死にしてます。戦場から離れ、山野に逃げ込んでから死んだという人もいれば、討ち取られたという人もいますが、なにせ戦場の事なので、はっきりした死にざまは分かっていませんが、どうたら、関ケ原の合戦で亡くなられたのは事情のようです。

 

華々しい最期ではあるのですが、他にこれといった歴史的偉業を成し遂げたという事もなく、本当に一生を通じて戦場で過ごし、若くして亡くなったという感じの人です。織田信長や那須与一をはじめとする登場人物に比べると、若干、知名度、インパクト的には、数段見劣りする点はいなめないかもしれません。

 

 

そうは言っても、物語の中の島津豊久が、いまいちピンとこないという分けではありません。むしろ、資料が少ない分、キャラクターに関して、かなり脚色の自由度が増したお陰で、随分と魅力のある主人公に仕上がっております。もう、なんなら、性格にアクがありすぎて、「廃棄物」とどちらが悪役なのか分からなくなるくらいです。

 

現在、6巻までコミックスは発売されておりますが、主人公の名に相応しく、基本的には、島津豊久が物語をひっぱっております。物語の中で、那須与一が島津豊久を評して「全知全能が戦に特化している」と言っているシーンがありますが、その言葉通り、現時点での島津豊久は戦の為に生まれてきたような人間。ひどく冷静な猪突猛進とでも言うのか、まさに、戦馬鹿です。恐らく、このコンセプトは連載終了まで変わる事はないのだろうと思いますし、変わってもらったら困ると言えます。

 

 

島津豊久の性格との兼ね合いなのか、織田信長に関して言えば、今まで描かれてきた織田信長よりも、随分と繊細、かつ、包容力のあるキャラクターになっております。織田信長という存在自体、有名すぎるくらい有名な為、どの漫画や小説でも、ある程度、似通ったキャラクターになりやすいのですが、「ドリフターズ」では、島津豊久のサポート役という立場もあって、普段目にする信長のイメージとは違った物になっているような気がします。また、そこも見どころの一つと言って良いのではないでしょうか。

 

 

異世界に放り出された、島津豊久、織田信長、那須与一らは、すぐ近くにあるエルフの村が、巨大国家オルデ帝国に弾圧を受けている事を知ります。

 

ちなみに、物語の中で、多くの国や民族が所属しているのがオルデ帝国です。勿論、エルフ達もオルデ帝国に属しています。オルデ帝国は、この世界では一番の大国です。また、多くの民族や、諸国を飲み込みながら大きくなった国なので、それぞれの民族に「支配された」という不満が残っていました。

 

オルデ帝国創立者は、そんな不満から人々の目を反らす為に、エルフやドアーフといった亜人間と呼ばれる種を差別の対象とし、オルデに対する不満や憎しみを、そちらに向けようとしました。

 

 

創立者の思惑は的中し、オルデ帝国は数十年の繁栄をしました。私達の生きている世界でも、聞いた事のある話ですね。ちなみに、オルデ帝国の創立者は、「漂流者」です。基本的には、私達側の世界にいる時と同じような事をしています。気になる方は、誰が創始者か漫画で確かめてみてください。

 

そんなこんなでエルフ達を助けるという事は、国政に逆らう事であって、オルデ帝国に敵対する事になります。しかし、昨日、今日、異世界に運ばれてきた「漂流者」は、そんな事はよく分かりません。とりあえず、島津豊久達は、エルフに助けられた恩もあるので、オルデの兵隊を皆殺しにし、指揮官をエルフ達の手で八つ裂きにさせてあげました。

 

 

あとから詳しい事情なんかを聞いた織田信長は、このまま、「国盗り」をする事に決め、みんなでオルデ帝国を盗りにゆく事にしました。さらに、これから先に来ていた「漂流者」達の組織、「10月機関」が加わってきたり、虐げられてきたエルフやドアーフが加わり、すこしずつ規模も大きくなってゆきます。さらに、時を同じくして「廃棄物」達も、「廃棄物」の王、国王を主として、オーク、ゴブリン、ドラゴンといった、所謂、「人ならぬ物」と廃棄物のみで構成された国王軍も、オルデ帝国を目指します。

 

一点注釈させていただきますと、この物語の世界は、大きく分けて、二つの民族で分けられます。「人」と「人ならぬ物」です。そして、エルフやドアーフ達は「亜人間」として、かろうじて滑り込むような感じで、「人」の中に入れられています。また、ぎりぎり、「人」の中に入っているので、差別もしっかり受けます。

 

そして、「人ならぬ物」たちは、それ以下だと思われているので、差別という意識自体が成立しません。

 

図式としては、「漂流物」達は、虐げられた人間とともに立ち上がり、人間至上主義のオルデを攻めて、「廃棄物」達は、人ではない生き物達とともに立ち上がり、人間そのものに攻撃を開始したという所でしょうか。こんな素敵な敵意のベクトルが入り乱れる中、「漂流物」達と黒王軍は全面対決へと歩を進めます。

 

連載中の作品ですが、現時点でも十分、面白いです。まだ、回収されていない伏線も沢山あるので、話の続きが気になります。

 

私としては、「漂流者」と「廃棄物」を案内した二人の正体が気になりますし、また、「漂流物」の中にも、「廃棄物」の中にも、歴史上でその死が確認されている物も多くいます。この歴史の資料と、どう設定をすりあわせるかも楽しみです。

 

歴史上の人物と「廃棄物」「漂流物」達は、本当に同一人物なのか?もしかしたら、歴史の人物そのものは死んでいて、物語の世界で活躍しているのは実は複製とか?もしくは、登場人物の死が、最終的に私達の歴史の世界の死に方と同じような結果になり、亡くなると、元々存在していた世界とリンクして元に戻るとか?それとも、お互いの世界は、全く関与せず、もとの世界との接点も完全に消えて別世界となっているのかとか?そんな事を考えると、7巻の発売が楽しみです。


片恋さぶろう

最近、お亡くなりになられた小池一夫先生の原作作品です。作画は、松森正さんです。

 

いいですね。劇画時代漫画、私子供の頃から、劇画時代漫画が好きでして、古本屋さんに入り浸っては、買っていました。ほら、欲しくても、子供のお小遣いだと、新品は高いし、劇画時代漫画というジャンル自体、私が物心つく頃には、お目にかかる時も少なくなっていたので、そうなると、近くの古本屋を探して歩くしかないんですよね。

 

そんな中で、やはり目に入る事が多かったのは、小池一夫作品です。お亡くなりになられる、少し以前では、ツイッターでのコメントも、話題になっていたようですが、個人的には、やはり、私はこの方はストーリーテーラーであって、「物語の人」だったと思っております。

 

小池一夫先生の他の作品となると、有名な物が多すぎて、枚挙にいとまがございませんので、

興味のある方は、「小池一夫 漫画」で検索していただければ、いくらでもヒットすると思います。

 

作画を担当されている森松正先生ですが、同じ劇画でも現代物を多く手掛けてらっしゃるようです。あとヒーロー物を描く事もあるようでして、だいたい二十数年前頃にアフターヌーンに掲載された「オメガ」などは、その時代には珍しい劇画ヒーロー物でした。当時、雑誌で見かけた時は、少し珍しいジャンルだったので、よく覚えています。他には、有名な所では、少し前にテレビ東京の深夜ドラマで人気が出た「湯けむりスナイパー」なんかも、作画として執筆されています。

 

さて、今回の作品「片恋さぶろう」ですが、主人公は、片乞三郎信綱という徳川家康の家臣です。タイトルを見てお気づきの方もいらっしゃると思いますが片乞の「乞」の字が「恋」になっているのです。

 

そうです、これ実はテーマは恋愛物なんですよね。こんなに漢字並べて、徳川家康まで出てきて、それで恋愛物って、一見すると違和感ありありだんですが、これが結構、独特の恋愛模様を描いていて、読んでいて引き込まれる作品なんですよね。まぁ、考えてみれば、恋愛物は、基本的に恋が芽生えそうにない場所に恋が芽生えるのを楽しむ「意外性の興」というのもありますので、時代物だからといって、恋愛が成立しないという事もないんでしょうね。

 

こちらの「片恋さぶろう」のストーリーを簡単に書きますと、時代は、徳川家康が日本を平定して間もなくの頃、関ケ原の合戦には勝利したものの、不穏分子はいまだに各地にいて、天下泰平というには、未だ遠い頃のお話です。

 

徳川家康は、朝廷が力を持ち、他の大名と結託し、再び乱世を引き起こす事を恐れ、いかにして朝廷との繋がりを持ちつつ、朝廷の力を削ぐかという事に苦心しておりました。

 

朝廷の力を削ぐために、徳川家康は「禁中並公家諸法度」という法律を作り、朝廷の財力や武力を削ぎました。そして、今度は、家康の孫娘「和姫」を天皇家に輿入れさせ、朝廷との姻戚関係を作ろうと計画していました。

 

しかし、朝廷側としては、「禁中並公家諸法度」による締め付けを断行されたというのに、今度は、自分たちの信仰の対象である天皇と親戚付き合いをしようとしている徳川家康の計画など、快く思うはずもありません。さらに、和姫の輿入れを見ないまま、徳川家康は病死します。朝廷側の怒りは、残された和姫婚姻へ、さらに、一歩進んで、「和姫暗殺」へと発展してゆきます。

 

片乞三郎は、頭カチカチの忠臣でして、それが、徳川家康の亡くなる間際に和姫の事を頼まれてしまったのだから、そりゃあ、命がけで、なんとかしようとします.

 

さて、ここで、お気づきの方はいらっしゃるかとは思いますが、先に話したように、「片恋さぶろう」は恋愛物です。恋愛するからには、最低二人以上の当事者がいます。それは、誰かと言うと、一人は片乞三郎、もう一人が誰かと言うと、実は「和姫」なんですね。

 

ただ、ここで気を付けてもらいたいのは、和姫の政略結婚ですが、政略結婚なんて物は、昨日今日に決めて、決行されるものではありません。なんなら、生まれる前から決めている大名だっているくらいです。ちなみにこの和子姫はどうかというと、恐らく、片乞三郎が家康に頼まれた頃は、八歳くらいかなと思いますが、その頃から、和姫様は、かなり片乞三郎になついている様子です。なにせ、大好きなお爺ちゃんが、信頼して傍に置いている男性ですから、大好きになるのも頷けます。

 

 

さらに、和姫の好意の表し方も、かなり特殊でして、家康に「おじい様、三郎の命が欲しい」とねだったかと思うと、言われた家康おじい様の方も困った事に「そうそうか、よいぞよいぞ」と言って、真槍を抜いて子供にわたし「ただし、取れたらな」と言い放つ始末。

 

そして、喜んで、片乞三郎を突き殺しにゆく和姫様。そして、それをニコニコして見守る、目じりの垂れ下がった徳川家康。しかし、徳川家康の恵比寿顔には、理由があります。それは、片乞三郎の他に類を見ない武術の腕前です。

 

和姫の槍の切っ先が、片乞三郎に触れるか否かの瞬間、片乞三郎の拳が畳の縁に触り、その刹那、畳が片乞三郎の身を守るように、速やかに真槍の前に立ちはだかりました。さらに、隣の畳、その隣の畳と横に移動しながら、畳の壁を伸ばしてゆく片乞三郎。

 

 

すでに、和姫の興味は、三郎の命から、生き物のように立ち上がる畳に向けられ、今は、激しく手を打ちながら「もっと、見せて」とはしゃいでいます。

 

一見すると、

「なんなの、この人たち?」

「大丈夫なの!子供に何やらせているの?」

「サロメかい!」

と言いたくなる光景ですが、何だかんだ言っても、戦国の気風が残る、江戸の初期です。今の私達の社会通念を持ち込んで、良い悪いを言ってみても、仕方がないので、その辺の事は、端の方に避けておきましょう。

 

さて、片乞三郎の方も、普段は苦虫かみつぶしたような顔をしているのですが、基本、和姫にデレデレです。誰かが和姫様を誘拐しようものならば、すっ飛んで行って、真っ二つです。

 

お爺ちゃんのお墨付きがあって、我儘を全部許してくれて、その上で何があっても守ってくれる、めちゃくちゃ強いおっさん…、そら子供もなつきますし、思春期にはれば好きにもなります。

 

片乞三郎が和姫を守り始めたのが、何歳頃なのかは、漫画の中では具体的な記述はありませんが、色々と逆算すると八歳くらいかと思われます。その後、片乞三郎は、敵の目を晦ますために、自分は死んだ事とし、山の中にかくれます。そして、和姫と、再び、再開した際に、片乞が一言、

「…お美しい」

となる分けなんです。

 

こうして見ると、片乞三郎の好意が具体的なセリフで描かれるのは、八歳の時点ではなく、再開した時なんですがよね。その時には和姫が十三歳の頃となります。

 

十三歳とおっさんの恋愛って、現代ならば関係各所に叩かれるレベルの物ではありますね。さらに、八歳の和姫に対しても、片乞が個人的好意を持っているかどうかという事に関して、具体的がないというだけで、あって、ニュアンス的には、そうと受け取れない分けでもないという場面もあります。そうなりますと、「もしかして、八歳の頃から…」と思うとそれはそれで怖い話です。

 

…が。しかし、話の流れからしても、そういう類の話ではないと思います。ちなみに、片乞三郎と和姫に関しては、濡れ場的な物は一切ありません。完全、プラトニックと言っても過言ではありません。そもそも、当時よりも、ちょっと、昔の戦国時代なんかは、十三歳で輿入れなんて普通の話ですからね。もっと、早くからの輿入れなんて、いくらでも例があります。

 

恐らく、片乞三郎は、最初の頃は、本当に主君である徳川家康の命令に従って、命を落とす事が本懐と思っているくらいの、忠義馬鹿だったと思うんですよ。それは、戦国の気風が残っている当時は、逆に、珍しい事だったと思います。

 

なにせ、戦国時代というのは、裏切り上等、下克上の風潮も強かったですし、二人の主君に同時に使えるなんて事は、それ程、珍しくはなかった事です。よく聞く「二君に見えず」なんていうのは、儒教の教えですから、江戸時代の、もうちょっと官僚政治が進んだあたりの考えなので、徳川幕府が始まった頃の日本において、片乞三郎のような考え方の人間は稀…というか、変人…、〇ち〇いと後ろ指を指されてもおかしくなかったかもしれません。…ようは、忠義馬鹿ですよね。また、そんな片乞三郎だからこそ、徳川家康は死ぬ間際に和姫の事を頼めたのかもしれませんね。

 

片乞三郎は、最初の敵を退けた後、考えました。もしも、自分がこのまま出張っていたら、敵は、和姫が宮中にお輿入れしてから殺そうと、予定変更してしまうのではないだろうか。そうなっては、片乞三郎でも、なかなか手を出せません。理想的なのは、和姫が宮中にお輿入れする前に、反乱分子を全てあぶり出して殺す事だと…。

 

その為に、長い年月を死人として過ごし続ける片乞三郎。そして、やる事といえば、毎日毎晩、和姫の安全を願いつづける。そして、いざ、久しぶりに姿を見ると…。そりゃあ…。

「…お美しい」

って、なりますよね。

それでも、片乞三郎は、和姫を無事、宮中にお輿入れさせるが仕事であって、それこそが、和姫の幸せと考える片乞三郎には、和姫の幸せを踏みにじり、自分の想いを押し通すなんて事はできません。だからこそ、彼の恋は、片思いでなければ、ならないのです。

 

そんな風に和姫への想いを、胸に秘めつつ、ただ、ひたすらに死線をくぐる片乞三郎が、どうにも切なくて切なくて…。一方、これで、和姫が、片乞三郎を家臣としか思っていなければ、まだ、それはそれで忠臣としての本懐を遂げるという事で、片乞三郎が一人で主人に横恋慕。「好きな人の為に死ねて、それはそれで良かったね」となるんですが、こちらの和姫なんですが、片乞三郎に負けず劣らす、片乞三郎に惚れているのですね。それこそ、こちらは、恐らく、八歳の頃から、惚れている感じがあります。

 

そうなると、片乞三郎の忠義を通す事は、本当に和姫の幸に繋がるのかという問題が、常に頭をもたげる事になります。疑問を持ちながらも、二人は二人の幸せの為の根本的な打開策を見つけられないままに日々を過ごします。和姫は、片乞三郎と過ごせる日々を、ただ、ひたすらに噛み締め、片乞三郎は、和姫の為に、ひたすら命を懸けて、戦い続けます。そんな風にして、物語は、和姫のお輿入れへと進んでゆきます。

 

 

最後に、片乞三郎が敵に言われた言葉で、物語の内容を端的に表したセリフがあるので、紹介します。

「…哀しくて、強い。

片恋さぶろうじゃ。

実ならぬ哀しい、恋してさぶろう…」

そうなんです。彼にとっては、恋が実るとか、そういう事はありえない事なんです。

ただ、ひたすら、好きな人の為に自分を使い続ける。もしも、好きな人の幸せの為に出来る事があるならば、自分の命は、それが達成できる所まであれば十分。そんな風に思っている人のお話です。

 

ここまで、書いて来て、なんなんですが…。

きっと、こういう人に好かれて、また、こういう人を好きになった人は、基本的に不幸なんじゃないかなと思うついこの頃です。

 

 

 

 

 

 

 


地方発 明治妖怪ニュース

これも厳密には、漫画ではないのですが、かなり、私の心を鷲掴みにした本なので、ご紹介させていただきます。

 

江戸時代では、妖怪文化というものが生活の中に根付いていたらしく、怪談、カルタ、錦絵、瓦版、現代も残される、様々な江戸の出版物の中にも、それらの名残は見せます。それらの文化、習慣は明治の御代、文明開化の訪れが来たとしても、そうそう変えられる物でもありません。

 

この本は、明治に印刷され、市井の人々が手にした新聞記事の中から、妖怪や不思議な出来事をピックアップして、地方紙ごとに分けた物です。この本を読んでいると、日本という国は、知識を娯楽とできる国民性なのだなと思います。

 

特に「何の誰兵衛が、幽霊と食べ比べをした」とか「幽霊が出てきておせっかいをやいた」だとかそんな記事が多く出版されていたのを見ると、本当に、昔から、妖怪という知識が好きだったのだなと思い知らされます。勿論、大きな新聞社なんかは別なのでしょうが、小さな新聞社なんかには、ちゃんと江戸時代の遊び心に溢れた瓦版文化が受け継がれていたようです。

 

まぁ、そういった感想は、横に置いておいて、この本に書かれている記事がなかなか面白いんです。折角なので、面白そうな記事を一つご紹介してみましょう。

 

「男が蛇に変ず」明治十六年九月五日、京都絵入新聞

書き出しは…、

「清姫驚くか否か、なったなった清姫は安珍慕ふて日高川を遊泳こえ道成寺に入り蛇になったのは昔の事で、嘘蛇か(うそじゃか)、実蛇か(ほんじゃか)狂言綺語で何蛇か(なんじゃか)知らねどこのごろ、新京極松ヶ枝町辺にて生た人倫(にんげん)が白蛇になったの蛇と…云々」

 

かなり軽妙な語り口調で始まるこの文章の内容としては、太さ九センチ、長さ二メートル強の白蛇を生け捕った山師(投機師と書いて、やましとも読むようで、この方が意味は分かりやすいかも)が見世物として売り飛ばそうとした事から話は始まります。

 

さて白蛇を、どう売ろうかと、新京極の興行師達に相談していた所、理髪店を営む捨吉が、その蛇を見かけ

「これは弁財天の遣わした蛇だから、見世物なんかにしちゃいけない。放した方がいいよ」なんて事を言い出し、それを聞いた興行師達も

「うん、あいつの言う事も最もだ!」(ここで納得する所が凄い)

「もしも、ちゃんと放したら、弁財天のご利益で、どんなに幸せになれるか分からないぞ」という話で一致して、次の月にはみんなで湖まで行って蛇を放した。という事なんですけど、話はその後日談に移行する訳なんですよね。

 

捨吉の使用人の梅吉が、その後、「あの蛇はどうなりましたか?」と聞いてきました。

捨吉は事の次第を話し、蛇を湖水に帰した事を話していると、不思議な事に梅吉の首が、だんだんと伸びてゆき、蛇のように舌先をちょろちょろと出しながら、その場に倒れ、後は何も喋れなくなってしまいました。

 

梅吉は蛇のように腹這えのまま動き、座敷の中を回っている。それを見た捨吉は

「是、全く弁才天のご利益にて梅吉が蛇になったと歓喜居るに、反対(ひきかえ)梅吉は其の後、一切物も言えず、苦で居るという噂さ」

と、なんだか、喜んでいるですよね。(ご利益じゃないだろう。少なくとも、それは…)

 

記事の結びは、「是は当人の神経病蛇と記者が保証して世の囂囂連(がやがやれん)を警戒(いましめ)た新聞蛇(しんぶんじゃ)」と結んでいます。

 

確かに突っ込みたくなる所が、あまりにも多すぎる記事ですね。

て、いうか…全員、ポジティブシンキング!

蛇を見世物に出来ない事よりも、それを放して、自分達に、どんな良い事が起こるのだろうと思って喜んでさえいるという凄まじい思考パターン。

それなら、初めから見世物小屋なんてやるなよ、というのは、現代の考え方であって、言ってもせんなき事なのでしょう。

 

そして、当時の記者が、なんと気前よく保証という言葉を使う事か。今ならば、考えられない事です。

 

さらに弟子が言葉が喋れない状態になっても、なお「ご利益で、蛇になった」と喜んでいる捨吉主人!それは、どう贔屓目で見ても、○たりの部類なんじゃないでしょうか?

 

勿論、タブロイド紙なので、事の真相は問題ではなく、娯楽性を優先しているのでしょうが、妖怪や不思議な物に対する身近さとか、当時の人達の距離感みたいな物が少し窺えるような気がします。

 

そして、何よりも、最後まで徹底した「~蛇(じゃ)」という語尾。蛇だから「じゃ」とい

いう発想に、ジャブ程度のカルチャーショックは、受けずにはいられませんでした。

 

他にもスローなカルチャーショックが受けられそうな話が。てんこ盛りで詰まっている本です。興味のある方は、是非、ご一読下さい。

 

最後に、私が、この本を読んで感じた事なのですが、実際の所、江戸時代の妖怪文化が続いているとは言いましたが、彼らの生活に全く変化がなかったという意味でありません。時代は明らかに変わり、人々の生活も変わり、新聞の中の記事に描かれている人々の生活も、明らかに江戸時代よりも、半歩、現代の私達の生活に近づいているのが分かります。

 

260年続いた江戸時代が終わり、生活は一変し、今まで当たり前だったものが、当たり前ではなくなり、今まで異質だったものが、当たり前となってしまった生活、何を信じていいかも分からない…。そんな時代だったのではないでしょうか。もしかしたら、当時の人達も、現代の私達と同じ先の見えない不安を抱えていたのではないでしょうか。こんなにも多くの、不可思議な内容の新聞記事がオフィシャルな物として出版されている事は、江戸の時代への懐かしさと同時に、私には、当時の日本の人々の未来への不安も強く現わしているような気がしてなりません。

 

また、そう思う事で、明治の人達と現代を生きている自分たちの間にも、繋がりのような物も微かに感じられるような気がするのは、私だけではないのではないかと思っています。

 

 

 

ちなみに、当時の全ての新聞が、こういう形であったという訳ではありません。あくまで、こういう分野が確立されていたという迄の話です。…念のため。


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manga2525

Author:manga2525
漫画、映画、アニメ、ドラマ大好きです。
すっかりメディアにはまり、きっと、その筋の業界の方には、
私はなかなか良いお客さんなのだと思います。
でも、いいんです。よくよく分かっている事ですので、…というわけで、一人でテレビや本みてほくそ笑んでいるのもなんなので、人前で語ってみようと思い始めたブログです。

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