まんがで読破シリーズ 「ドグラ・マグラ」

イーストブレスと言う会社が出している「まんがで読破」と言うシリーズの中の一冊です。こちらの「まんがで読破」シリーズ、結構、面白いんですよね。基本的に、私、ものぐさなので一回小説などで読むと、後は、再び漫画で読むなんて面倒くさいなと思う方なのですが、こちらのシリーズは読んだ事のある作品でも、つい読んでしまいます。

 

…というのも、名作のコミカライズって、今まで、沢山行われてきましたが、小説以上に面白いと思った事がないんですよね。誰もが知っている名作を題材にしているという事もあってか、大概の作品が、あらすじを無難にたどり、名作のイメージを逸脱しないようにしすぎて、漫画としての面白さが感じられないというのが、私の今までの名作コミカライズへの感想でした。

 

しかし、こちらの「まんがで読破」シリーズは、ちょっと違っていて、本筋から外れはしないものの、その範囲内で「面白さ」を魅せようと頑張ってくれている気がします。実際、小説のキャラクターに関しても、文章だけで読むとは、また、違った印象を受けます。考えてみれば、原作と作画が違う漫画で面白い物なんて山ほどあります。だからといって、漫画家の手腕が、全く関係ないなんて事はなく、やはり、原作に書かれていない部分は、漫画家の力による所が大きく、また、しっかりと練られた原作は漫画やドラマにしても面白いと思います。

 

「昔の優れた新作が、古典として残るのだ」という言葉を何処かで聞いた事があります。こんなにも長く残った小説が、面白い漫画原作となり得るのは、ごく自然な事のような気がします。そう考えると、名作という名の神棚から降ろせば、名作は、いくらでも面白くなる可能性を秘めている作品なのだとも言えます。そういった意味では、「まんがで読破」シリーズは、名作の面白さの可能性を、ちゃんと掘り下げているシリーズなのではないかと思います。(当たりはずれは、ありますけどね)

 

また、このシリーズはコミカライズに選ぶ本の選択が、なかなか乙なんですよね。普通は名作のコミカライズというと、「坊ちゃん」とか「こころ」あたりを選びたいですよね。勿論、その辺も網羅してはいるんですけど。他にも西田幾太郎の「善の研究」戦国物によく出てくる宣教師ルイス=フロイスの「フロイスの日本史」九鬼周造の「いきの構造」、「おいおい、これまでコミカライズするのかよ!」と言いたくなるような、高校時代の倫理の教科書に言葉だけ並べられていたような本までコミカライズしています。確かにどれもこれも名著ばかりですが、けっして感動を呼ぶ為に書かれた物でもなければ、人を楽しませる為に書かれた物でもありません。こうなると、面白い原作を選ぶというよりも、「どんな原作でも面白くしてやる」という逆転の発想的な気概を感じざるを得ません。そんなこんなで、わりとこのシリーズは読んじゃうんですよ。ちなみに、この「まんがで読破」シリーズですが、月一回のペースで新作を出しているそうです。

 

 

さて、その中でも私が気に入ったのは、「ドグラ・マグラ」という作品です。この作品がコミカライズの棚に並んでいるのを見つけた時は、つい、即買いしてしまいました。

 

こちらの「ドグラ・マグラ」は、一部のファンの中ではかなり有名でして、誰がカウントしたのかは知りませんが、一応、「日本三大奇書」の中に数えられおり、特に「ドグラ・マグラ」「読み終わった人は、数時間に一度は精神に異常をきたします」と出版時のキャッチコピーに書かれていた事が有名ですね。私も若いころ、「ドグラ・マグラ」の小説も、松本俊夫監督の映画も見ましたが、特に頭がおかしくなるという事はなく、普通に小説版も映画版も楽しめたと思っております。

 

ちなみに、日本三大奇書の他の二作品は、小栗虫太郎先生の「黒死館殺人事件」と中井英夫先生の「虚無への供物」です。何れも、探偵推理小説です。また、どちらも私は読んだ事はありませんが、「黒死館殺人事件」は「まんがで読破」シリーズからコミカライズされています。よく勘違いされる事がありますが、日本三大奇書に「家畜人ヤプー」は入っていません。こちらの称号は「戦後最大の奇書」だそうです。どれもこれも当時のキャッチコピーみたいなものだったんでしょうね。

 

 

未だにに根強いファンの多い、夢野久作先生の「ドグラ・マグラ」ですが、漫画ではかなり分かりやすくなっています。「ドグラ・マグラ」が読解が困難であると言われた理由の一つに、その物語の構成の複雑さと、場面転換の多さがあげられます。基本的には、主人公は、物語の冒頭の舞台である九州大学病院の精神科病棟からは動いてはいないのですが、登場人物のやり取りの中で、一か月前の大学、突然回想シーンに出てきた登場人物の生家がある福岡県の田舎、唐の玄宗皇帝の時代と場面が転換します。結構、この転換の仕方が、小説ではわりと急なのですが、けっして論理的には崩壊していないという絶妙な匙加減の構成になっています。おそらく、あれだけ複雑な構成を成立させ、なお名作として読者に読ませる事が出来るのは、夢野久作先生の文体があっての事なのでしょう。

 

 

一方、これがコミカライズされますと、思った以上に分かりやすくなるんですよね。実際、小説に書かれている内容の全てが書ききれているかという微妙ではあるのですが、話の筋自体は網羅していますし、何より、唐突に変化する場面転換も、こま割りされた絵で表される事で、かなり読みやすくなっていると思います。案外、漫画と相性が良い作品なのかなとも思ってしまいます。少なくとも、小説版「ドグラ・マグラ」を読む時の、良い参考書となるような気はします。

 

 

物語は、意識不明のまま、九州大学病院の精神科に入院していた、ある事件の重要参考人が意識を取り戻すところから始まります。

 

主人公は、この重要参考人の「青年」です。名前は、物語の最期の方まで出てきません。「青年」は、ある事件を切掛けにして記憶喪失となり、そのまま精神科に収容されていたという状況でした。

 

物語の運びとしては、事件解決の為に、「青年」の記憶を蘇らせようと法医学教授の若林鏡太郎という登場人物が、「青年」と対話を続けるという構成です。話の中には、多くの人間の名前は出てきますが、作品の時間軸の中で存在しているメインキャラは、三人しかいません。基本的には、「青年」と「若林鏡太郎」の会話に、回想や資料の振り返りを割り込ませるような形で話は進みます。その点では、物語全てではありませんが、前半部分に関しては、複雑な構成であっても、基本の時間軸には現実というシンプルさがあるので、読者としては話が大きく広がりすぎても、元に戻る場所が用意されているようで、少し安心する事ができます。

 

 

しかし、次第に、話が広がるにつれ、読んでいる方の時間感覚も狂ってゆき、しらずしらずの内に物語の中で、唯一、灯台の灯のようにはっきりしていた主人公と若林鏡太郎が会話をしているという現実でさえあやふやになり始めます。

 

しかし、ここで断っておきたいのは、どちらかというと小説版の感想に近くなってしまい恐縮ではあるのですが、また、もしかしたら、コミカライズで漫画家さんも再現しようと意識されていた事でもあるのかもしれませんが、私は現実があやふやになってゆくという感想を前述しましたが、それは現実が曖昧になってゆくという現象を文章で描いているというのとも、また、物語が論理的に破綻しているというのとは、全く意味が異なっており、あえて具体的に述べるのならば、物語も文章も破綻する事なく、「曖昧になる事」そのものを書き表す事なく、読み手に作品を読んでいるという最小限の自我を保たせつつ、読んでいる人間の中に、本の中の現実が何処にあるのかが分からなくなってゆくという現象を故意に起こさせているという事を意味しています。それを一言でいうのならば「取り込み、溺れさせる」という言葉が当てはまるのかもしれません。そして、最期には読者の視点である、主人公の自我までも曖昧となり、それと一緒に読者には煙に巻かれたような不思議な読後感が残ります。(あくまで、私の感想ですからね)

 

こうやって書いてみると、小説というよりも、アングラ芝居のシナリオを説明しているような気になってきますが、また、この夢とも現実ともつかない不気味さが、漫画版にしても小説版にしても面白さの一つだと言って良いでしょう。そういった意味では、漫画版「ドグラ・マグラ」は、小説の雰囲気を上手く掴んでいるともいえると思います。

 

 

漫画版「ドグラ・マグラ」も大変面白い作品ですが、漫画の分かりやすく明確に伝えるという絵の力とは、また、違った、文字だけで物語を伝えるというシンプルな手段だからこそ可能な、より深く伝え思考させるという特徴を持つ小説という手法によって描かれた「ドグラ・マグラ」も大変魅力的な作品です。

 

特に、小説という手法と、夢野久作先生の筆力が合わさった時の力は絶大で、印刷された言葉達は、読む人に対して、脳の奥に硫酸を流しこむような問答無用の浸食力を発揮します。

 

漫画版を読んで面白かった方は、是非、小説版を読んで、夢野久作先生の筆力と絶妙な構成力を確かめて戴きたいと思います。

 

 

 

 


オリジナル版 魔王ダンテ

永井豪先生の作品は、有名な物が多いです。特に、「デビルマン」や「マジンガーZ」なんかが特に知られた所ではないでしょうか。こちらの「魔王ダンテ」は、その有名な「デビルマン」のモチーフになった作品と言われている作品です。実際は、デビルマンを依頼した出版社の原稿依頼の内容からして、「魔王ダンテを基にした作品」という要望だったらしいです。

 

「魔王ダンテ」が最初に雑誌掲載されたのは1971年ですが、平成になってからも、完成版が作成されています。1994年に風雅明先生が「真・魔王ダンテ」を発表されていますが、永井豪先生ご自身が描かれたのは、1971年に発表された最初の作品と、その後、平成になってから、ご自身で加筆修正され完結した物の二つになります。後に出されたOVAは、平成版の完結版の方を基に作られたようです。私は、まだ、完結版の方は読んでいないので、今回の感想は1971年出版のオリジナル版についてのものになります。

 

最初から、そのように作ったからなのでしょうが、こちらの「魔王ダンテ」は、やはり、「デビルマン」を彷彿とさせる箇所が随所にみられます。…というよりも、これ以降、現在まで続いている「デビルマンシリーズ」の世界観は、ここから続いているといってもいいような気がします。実際、「デビルマンレディ」の中でも、パラレル世界の住人として、「魔王ダンテ」の登場人物宇津木涼君は登場していますので、やはり、永井豪先生の中でも、「デビルマンシリーズ」の一つとして認識しているのだろうなと思われます。

 

本当に失礼な話なのですが、永井豪先生の作品の中にはいくつか、紀貫之を評した有名な言葉「想い余って、言葉足らず」ではありませんが、想像力の膨張率のスピードに、漫画を描くスピードが圧倒的に追いついていないという事があるような気がします。ちなみに、この「追いついていない」という言葉の意味ですが、それは永井豪先生の書くスピードをどうこう言う意味ではなく、反対に、その想像力が膨張してゆくスピードと広さの凄まじさを指している言葉です。

 

勿論「魔王ダンテ」の場合は連載されていた雑誌が休刊となった事による打ち切りという事情はあるのでしょうが、それを差し引いても、恐らく、永井豪先生の頭の中の想像力は、人間の原稿を作り出す限界のような物を軽々と超えているのかもしれません。

 

そして、積み上げられ触れあがった想像は、何処かで爆発し、必ず名作として実を結ぶ。常にそんな過程を踏んでいるような気がしてなりません。そう思うと、よくぞ、過労死する事なく、名作を世に送り出してくれた物だと、感心する気持ちと感謝の気持ちが両方湧いてきます。

 

 

作品のストーリーを紹介いたしますと、「魔王ダンテ」と主人公宇津木涼との出会いは、雪山登山です。この辺は、アニメ版デビルマンを彷彿とさせますね。ちなみに、デビルマンレディでも宇津木涼は、地獄の最下層、神様に反抗した人が永遠に氷漬けになってるコキュートスまで行って、ダンテと合体していますので、永井豪先生のイメージにとっては、「永久凍土の中に封じられた悪魔王」というビジュアルは重要な物だったのだろうなと納得させられてしまいます。

 

 

氷の中に閉じ込められていた魔王ダンテが、テレパシーで宇津木涼を呼び寄せ、ダンテを封じ込めている機械類を壊させて、自由になるという話が、物語の冒頭です。テレパシーを送り続けて、受け取った人間を引き寄せるという方法が、若干、横山光輝の「バビル二世」を連想させますね。

 

結局、引き寄せられ、封印を解かされた宇津木涼が、どうなったかというと、復活したてのダンテに食べられてしまいます。もう、酷いもんで、体上下真二つに食いちらかされる感じです。このシーンも、デビルマンの不動明は、最期は上半身だけになって死ぬし、そもそも、宇津木涼と不動明の顔自体がそっくりです。この辺でも、共通点を感じてしまいます。さらに、これは余談なのですが、マジンガーZのアシュラ男爵、ブロッケン伯爵、ピグマン子爵、ゴーゴン大公なんかにも見られるんですけど、永井豪先生は、体の何処の位置に線をひくかはその時に応じて違いますが、「真二つ」ビジュアルそのものが好きなのかもしれませんね。

 

それはそうと、ダンテが宇津木涼を食べたのにも訳がありまして、ダンテは人間の脳を食べ、その人の経験や知識を手に入れるという能力があるそうでして、永い眠りから覚めたダンテは、現代の情報を何も知りません。封じ込められていたダンテが自分の事を「イスカリオテのユダ」と名乗っていましたので、それが事実で、キリストの磔刑の時に封印されたのだとすると、少なくとも二千年近い時差が生じる事になります。相当の時代遅れです。たれパンダがどうとか、タマゴッチがどうとかの比ではありません。そんなダンテですので、手始めに、宇津木涼の脳を食べて、現代の社会情勢を知ろうとしたわけですね。

 

ところがどっこい宇津木涼も、食べられるだけではありません。自分は食べられた!そう思った宇津木涼が次に気が付いた時、彼は、魔王ダンテとなっていました。ようは、ダンテに吸収される筈だった脳が、逆に、ダンテの体を吸収、支配してしまったという事ですね。この辺も、後のデビルマンのアモンと不動明の関係によく似ていますね。まぁ、この行為自体は、悪魔だ人間だというよりも、カタツムリに寄生して脳を操り、鳥に食べられやすいように仕向けてゆくロイコクロリデュウムや、カマキリに寄生して水辺までカマキリを連れて行った所で、腹を食い破るツリガネムシのような寄生虫の方が近い感じはしますが、人間の意志の力なんて事をテーマにしたい時になんかにも、分かりやすい表現だと思いますが…。しかし、天下の永井豪先生は、何処かで聞いたようなテーマでは、落ち着いてくれません。実際は、宇津木涼がダンテの体を乗取れたのも、偶然ではなく、ちゃんと理由はあるんですよね。ちなみに、元々の理由なんか知らない、ダンテと合体した当初の宇津木涼は、その後、自分のアイデンティティがダンテの肉体にあるのか、それとも、自分の保持している記憶と人格である宇津木涼にあるのか分からなくなり、揺れ動く日々を過ごします。

 

 

結局は、最終的にはダンテとしての自我を確立して、「さぁ、みんなで元気に人類を滅ぼそう!」という事になる分けなんですが、文章の冒頭でも書きましたが、休刊、打ち切りという事情のせいで、ここまでのスピードが本当に早いです。まぁ、仕方がない事だったのでしょうけど、確かに、これだと出版社も読者も、「基にした次回作を…」くらいの事は言いたくなるでしょうね。実際、永井豪先生ご本人も「デビルマン」を書いても、「魔王ダンテ」が完結していないという思いはあったからこそ、後に「完結編 魔王ダンテ」を完成させたのでしょう。

 

 

実際の所、こちらのオリジナル版とされる「魔王ダンテ」には、その後の「デビルマン」などに比べると、不完全で荒い所はあるのですが、根本的には、私は、こちらのオリジナル版「魔王ダンテ」は、作者の脳みそをそのまま紙面に塗りたくったような印象があって、とても面白い作品だと思っています。

 

また、「魔王ダンテ」だけで見ると、このオリジナル版は試作品、未完成品というような受け取り方もありますが、多くのデビルマン関連作品と関連付けて見てみると、その着想、物語の構成、キャラクター…、そうした多くの物が、その後のデビルマンシリーズに繋がっており、まさに、「始まりの書」と言っても、過言ではないでしょう。私としては、こちらのオリジナル版「魔王ダンテ」を読んで、初めて「デビルマン」という物語の輪郭がはっきり捉えることができたような気がしています。

 

 

特に私のような、永井豪先生の作品がお好きな方、「デビルマン」LOVEの方は、こちらのオリジナル版「魔王ダンテ」は楽しめる作品なのではないかなと思っております。


女帝エカテリーナ

これは知っている人は、よくしっている名作です。

アンリ=トロワイヤ先生原作、池田理代子先生作画という名作です。アンリ=トロワイヤを知らない方も、池田理代子先生の名前を聞けば分かると思います。もしも、池田理代子先生が分からなければ、「ベルサイユの薔薇」の原作者と言えば、さすがに分かるのではないでしょうか。

 

池田理代子先生の作品で、最も有名な作品は「ベルサイユの薔薇」と言えますが、それ以外にも、彼女の作品には名作が多く、私も子供の頃から楽しませてもらいました。いくつかあげさせてもらえば、ナポレオンを主人公にしてベルサイユの薔薇以降のフランスを描いた「エロイカ」、19世紀のロシアの寄宿舎の少年たちを描いた「オルフェイスの窓」、あと学園ものでは「お兄様へ…」なんかが有名どころではないでしょうか。私は、個人的には「エロイカ」とベルサイユの薔薇のスピンオフ「ベルサイユの薔薇外伝」と今回紹介する「女帝エカテリーナ」なんかが、特に性に合っていた気がします。

 

原作者のトロワイヤ先生も、日本ではそれ程、名前は知られていませんが、ジャン=ポール=サルトルの「嘔吐」と、フランスの「ゴング―ル賞」という文学賞を争って、受傷した方ですので、その時点で、相当、凄い方です。アルメニア系ロシア人だったのですが、ロシア革命が勃発し、両親とともにヨーロッパに移住、その後、フランスで作家になるという経緯がありまして、そうした生い立ちもあってか、作品にはロシアの近代史を題材とした物が多く、そちらの分野でも、かなり評価を受けている方のようです。

 

物語の主人公はロシア帝国の近代化を果たし、黄金期を築いたと言われる「エカテリーナ二世」です。初代皇帝ピョートル大帝が皇帝の名乗りを上げたのが1682年で、エカテリーナ二世が16歳で結婚の為にサンクト・ペテルブルク入りしたのか1744年なので、ロシア帝国建国から62年後の事です。ちなみに「エカテリーナ一世」は、ピョートル大帝の奥さんです。

 

建国62年といっても、それまでロシアの土地に誰も住んでいなかった分けではなく、その前進の「ロシア・ツァーリ国」建国が「イヴァン四世」がツァーリの称号を得た1547年ですし、その前の「イヴァン三世」は大モスクワ公国なんて名前の国の王様だったようでして、この頃、後にロシアと呼ばれる領域にあった細かい国々を併合して、その後のロシア領の礎を作ったようです。遡ってゆくと、結構、短いスタンスで国が変わっている土地のようですね。ころころと国は変わるものの、ロシアの地に人々は、結構、昔から住んでいるみたいです。がちなみに、エカテリーナは、ロシア入りしてからついた名前で、出生地と本名は、北ドイツ生まれのゾフィー・アウグスタ・フレデリーケさんです。

 

さて、そんな常に政情も安定しないわりに、国土はやけに広いロシア帝国ですが、英雄と呼ばれる「ピョートル大帝」の後継を、姪の「女帝エリザベート」が継ぎ、さらにその後継者が「ピョートル三世」となるわけなのですが、昔から初代は天才、二代目凡人、三代目は凡人以下なんて酷い言葉もありますが、こちらの「ピョートル三世」も、その例に漏れない、可哀そうなくらいのボンクラときているので、ロシア帝国も困ってしまいます。ちなみに、この「ピョートル三世」が「エカテリーナ二世」の旦那さんとなります。

 

 

さらに、この「ピョートル三世」は幼い頃から、当時のヨーロッパの中でも文化度の高かったドイツで育てられていた為、やたらとドイツ贔屓に育ってしまい、事あるごとに自国のロシア文化を馬鹿にする始末です。しまいには、ドイツを敬愛するあまり、プロイセンとの戦争中に勝てる戦争を辞めて和議を勝手に申し込んでしまったりとやりたい放題。ロシア国民も臣下も面白い筈がありません。それでも、ロシアの皇帝の後継者という事で「エカテリーナ二世」も夫を立てないわけにはゆきません。全くに、苦労の絶える事のない結婚生活です。。

 

一方、主役の「エカテリーナ二世」は、16歳の嫁入りの頃から、ロシアの玉座に君臨する事を夢見てやってきた女の子です。始まりから覚悟が違います。ロシアに入国してからは、結婚前からひたすらロシア語とロシア文化の猛勉強です。お陰で、民衆の間での「エカテリーナ二世」の人気はうなぎ上りとなり、その一方で、「できない君のピョートル三世」は、さらに意固地になってゆきます。結婚後は、「ピョートル三世」の男性機能コンプレックスも手伝って、さらに、二人の関係は冷え切ってゆきます。(近年、こうしたピョートル三世のマイナス面は史実とは違ったんじゃないかという説もあるらしいですね)

 

しかし、「英雄色を好む」の例えもあるように、旦那と不仲になったからといって「エカテリーナ二世」も、そのまま貞淑で禁欲的な妻を続ける女性ではありません。彼女には「女帝」という名前の他にもう一つの異名があります。それは「玉座に座った娼婦」というなんとも艶っぽいのか、勇ましいのかよく分からない、魅力的な名前です。また、その名に恥じない恋多き女性だったようです。分かっているだけでも、公認の恋人は10人。その内の一人、ポチョムキンなんかとは、秘密結婚なるものまでしていたようです。

 

この「女帝エカテリーナ」のいい所は、政治的背景だけではなく、そうした恋の鞘当て的な場面や、16歳でロシアに嫁入りした「エカテリーナ二世」の少女らしい気負いや、大人になる手前の不安、結婚への失望、初めての恋で大人になってゆく様子、または、統治者としての孤独と、恋人の存在でそれらが癒されたり、むしろ強く感じたりなどといった様子などが丹念に描かれている事ではないでしょうか。むしろ、そちらの方が、私は主なのではないかとも思っております。

 

やがて、「エカテリーナ二世」はクーデターを起こし、夫の「ピョートル三世」を幽閉し、女帝へと昇りつめます。その後、「ピョートル三世」は不審死を遂げます。ちなみに、公的に発表された彼の死因は「痔」でした。(どうやったら痔で死ぬのか? それとも、薬のない時代は感染症で死ぬ事もあったのか? 疑問は感じざるを得ません)

 

 

「ピョートル三世」の死後、女帝となった「エカテリーナ二世」は、名実ともにロシアの実験を握り、自分の地位を盤石な物とするため権謀術数の日々を送りながらも、人生の黄金期と呼べる毎日を過ごします。

 

しかし、時代の変化は突然、「エカテリーナ二世」を襲いました。フランス革命の勃発です。民衆が発起しバスティーユ監獄が襲われた事に「エカテリーナ二世」はひどく動揺します。封建主義の絶対専制君主時代から、時代は民衆の代表が議会によって政治を行う共和主義思想へと動き出していたのです。

 

必死に啓蒙思想、自由主義思想を取り締まろうとする「エカテリーナ二世」ですが、かつては、フランス語を読み解き、啓蒙思想を深く学び、ロシアを近代化させようと、仲間達と必死に走り回った「エカテリーナ二世」の姿は、そこにはありませんでした。彼女のそんな姿を見て、若いころから苦楽を共にした仲間も去ってゆきます。

 

それでも、彼女は王政を守ろうとします。彼女が必死になればなる程、「老いの残酷さ」と「時代の非情さ」を見せつけているようで、見る者には辛さを感じさせます。しかし、やはり、あえてこの場面をちゃんと描かなければ、「女帝エカテリーナ」は完成しないのだと思います。一人の女性が、時代の変換期に必死に自分そのもので在ろうとした。統治者である事も女性である事も諦めず、生まれて、恋をして、笑って、泣いて、老いて、そして、死んだ。人類が生まれてから延々と繰り返されているごく自然の事であって、また、だからこそ深淵で偉大なテーマ足りえる。それが「女帝エカテリーナ」という物語の根底にあるものなのではないでしょうか。

 

最後に言い残した事が二つあります。池田理代子先生の絵の細かさが凄い。宮殿やらドレスやらのゴシック系の造形は勿論、本棚の中の本の一冊一冊までペン書きという細かさです。この点だけ見ても必見です。

あとは……、私、ピョートル三世大好きです。ああゆう出来ないキャラ、ちょっと萌えます。ちなみに、言っときますけど、最近、見直され始めている史実のピョートル三世ではなく「女帝エカテリーナ」に方の出来ない子ちゃんの方のピョートル三世ですからね。ピョートル三世と、エカテリーナの恋人たちのイケメン度合いが、おそろしくかけ離れていて残酷極まりありません。でも、結構、好きですピョートル三世!そんなダメンズ好きにも面白い作品なのではないでしょうか。


カタリベ

石川雅之先生の作品です。この方の代表作としては、「もやしもん」があげられると思います。あとは、短編を繰り返し掲載するような形が多いような気がします。

私、わりとはっきした線で描かれる石川先生の絵が、結構好きです。

 

「カタリベ」は、「もやしもん」で漫画賞を受傷されてからの作品ですので、わりと、初期の頃の作品となるのでしょう。

作品のジャンルとしては時代SFってところでしょうか。

時代は南北朝時代。

 

ちなみに、ちょこっとだけこの時代を説明しますと、南北朝時代というのは、京都に開かれた足利幕府を拠点にした武家政治の国家と北朝と、吉野に後醍醐天皇が作った公家政治の作った国家の南朝という、二つ存在していた時代の事です。

 

しかし、後醍醐天皇が吉野に公家政治の国家を作ったと書きましたが、ここで誤解のないように付け加えておきますと、武家政治の北朝ですが、それでは、北朝の方には、天皇はいなかったのかというと、そんな事はないのです。北朝にも、しっかり天皇は存在していて、朝廷も存在していました。

 

…というより、当時としては、天皇の存在そのものが国家といっても過言ではないので、天皇不在の政権などといった物は、単なる暴力集団であって、いまでいうテロリストや、非合法団体といった類になってしまうのです。よって、天皇の擁立は絶対なのです。

 

どんなに天皇の力が弱まろうが、武家政権が強くなろうが、武家は天皇の家臣であって、天皇は天皇なのです。よって、天皇が朝廷を立てるとなれば、それも国として成立ってしまいます。ようは、みんな好き勝手やって、日本が真っ二つに割れてしまった時代と言えるかもしれません。

 

幕府は「天皇が邪魔なら、別の天皇たてればいいでしょう」天皇の方は「幕府が俺の事邪魔っていうなら、別にいいよ、俺がいる場所が日本だもん。だって、俺、天皇だもん」なんて事をやっている時代ですので、規範という物も、おそろしく曖昧にならざるをえません。社会的規範がなくなると、人間は何を導にするかとなると、より身近な価値観を基準にする事になるでしょう。それは血縁だったり、小さな組織の結束だったりするのかもそれませんが、最も、分かりやすい物としては、「欲望」があげられるのではないでしょうか。

 

また、その頃、明国の力も弱まり、海には倭寇が横行していました。言い方によっては、戦国時代とは、また別の意味で、「力さえあれば、誰はばかる事なく、欲望の翼をどこまでも広げる事のできる時代」と言えたかもしれません。

ただ、色々な歴史ものの漫画が、世の中には存在していますが、南北朝時代を背景にしたものは、少ないような気がします。政権が二つに分かれた事によって、当時の資料が集まりにくかったのか、それとも、たんに人気がないというだけなのか、どちらにしても、この設定自体、あまり見ない時代設定のような気がするので、その点をとってみても面白かったです。

 

また、資料が少ないという事は、創作できる割合が増えるという事でもあるので、そういった意味でも、「カタリベ」という作品においては、適した時代設定だったのだろうなと思います。

 

物語の主人公が暮らす島には、明の勢力争いに敗れた豪族たちが暮らしています。彼等

は九姓漁戸という一族でして、自分たちを追放した明国を倒し、いづれは国家の中枢に返り咲きたいと願い、時機を伺っている一族です。

 

しかし、一族とはいっても、ずっと一枚岩というわけではありません。明国打倒!なんて目標をたててはみたものの、長丁場になれば。だんだんと一族の中にも不信感をつのらせる者も出てきます。

 

そんな不穏分子を出さないために九姓漁戸の長老が考えた方法が、「カリスマの対象を創り上げる」という方法でした。具体的な方法は、「人買いから子供を買う」という事でした。

 

こうやって手に入れた子供を自分たちの支配者の血族、「御曹司」として育て、仲間達にもそのように信じ込ませ、「自分たちには尊い御曹司がいるのだから、正当な扱いをうけるべきだ」「御曹司をお守りして正統な地位につかせる事こそが自分たちの仕事だ」と思わせ、不穏分子の不満を、忠義という言葉にすり替えるという荒業をやってのけたのです。

その成果もあり、九姓漁戸たちは御曹司を中心にまとまっていました。御曹司も、自分の出自に疑いを持つことなく、島の中で可愛がられて育ちました。

 

しかし、そんな話を聞きつけた人身売買業者が「御曹司」に奴隷30人分の値をつけた事を倭寇達に伝えました。理由は、「意味はない」との事です。

 

結果として、御曹司は捉えられてしまうのですが、今度は倭寇達の取引材料とされ、御曹司と引き換えを条件に、九姓漁戸大人80人が倭寇に捕まり、奴隷として売られてしまう事になりました。倭寇としては、抵抗されることもなく、80人の奴隷が手に入れば、その方が得だと思ったのでしょう。

 

納得しないのは、御曹司です。この後、海の守り神「ババン様」なる方が現れ、そんな方の力を借りて、御曹司は「80人の仲間を奪い返す」と言って、奴隷商船に特攻します。

九姓漁戸を結束させるために買われ、今度は人買いの気まぐれで襲われ、ひたすら誰かに利用されている御曹司。ちなみに、この時点で御曹司に名前はつけられていません。九姓漁戸の長老にとっては、

御曹司という立場さえあれば、彼に名前は必要なかったという事なのかもしれません。

 

 

島を後にして、有象無象が跋扈する南北朝時代の海洋へと飛び出した御曹司は、利用されっぱなしの人生を取り返すかのように、色々な人達と出会い、その過程の中で、自分の生きる理由や、その為の生き方を自分で決めてゆきます。


ここで出てくる「色々な人」が、とても魅力的に描かれているんですよね。根本的に石川雅之先生は、分けの分からない人を魅力的に描くのが上手い人なんでしょうね。この本は、全巻一冊なので、さらに細かく書いてしまうと完全にネタバレになってしまうので控えますが、万年中二病の私には、おもしろいキャラクター設定だと思えました。

 

正直言えば、この後の石川雅之の作品と比べて、この作品は秀逸な物だとは思いません。むしろ、途中で打ち切られたのか、それとも上手く収集がつけられなかったのか、話の流れに粗さのような物を感じる点もあります。

 

でも、そういうマイナス要素を加味してもこの作品好きなんですよね。

迷走しながらも、言いたい事を一つずつ書いているというのか、「良い意味での同人誌っぽい作品」という印象を私は持っているんですよ。(私の勝手な感想なのですが)

 

だから、本音を言うと、一巻完結じゃなくて、続刊とか出してもらいたいところなんですよね。まぁ、無理だとは思いますけど。

 

 

 


プロフィール

manga2525

Author:manga2525
漫画、映画、アニメ、ドラマ大好きです。
すっかりメディアにはまり、きっと、その筋の業界の方には、
私はなかなか良いお客さんなのだと思います。
でも、いいんです。よくよく分かっている事ですので、…というわけで、一人でテレビや本みてほくそ笑んでいるのもなんなので、人前で語ってみようと思い始めたブログです。

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