関根くんの恋

 

作者は河内遥先生という方です。

私、この先生の作品は、「関根君の恋」以外は読んだことないので、こちらの作家さんの作風がどんなものなのかとはか、分からないのですが、「関根君の声」に限っていえば、「魔法も剣も、お化けも出てこないファンタジー」というような印象です。

主人公の関根圭一郎は、類まれなるレベルのイケメンです。さらに、何事も器用で、仕事もできる。女性からは、かなりもてる。近くに馬でもいようものなら、王子様を連想させてしまう稀有な日本人。かなりというか、若干、神がかり的なレベルでもてる男です。

 

しかし、同時に、それらの好条件を含んでも、なお、残念な男に区分けされてしまう人物です。ちなみに、ここでいう「残念な男」と言うのは、作中に現れる他の登場人物からの見え方ではありません。「残念な男」として彼を見ているのは、作者と読者と、あとは、もしかしたら関根君本人です。ある意味、他の人から見たらわかってもらえない「残念さ」を見る事が、この漫画の肝なのかもしれません。

 

羨ましいくらいのイケメンである関根君は、基本的に常に情緒不安定です。どのくらいかというと、人と話していて、自分が気づかない内に涙があふれてきたり、リリアンを始めると、大きめの紙袋一杯に用途不明な編み物を作ってしまったり、仲良しの友達の奥さんが荷物を持とうとしているのを見ると、痩せすぎている彼女の全身の骨がおれてしまう妄想が始まり、どうしようもなくなってしまったりと、そこそこいっちゃっています。

 

もしも、外見と卒がない仕草で付き合い始めて、関係が深くなって彼の内面が分かったら、人によっては、速攻でアドレス変えて、さよならするレベルかもしれません。なんだか、読み進めてゆく内に、残念すぎて、見ているこっちが切なくなってくるくらいです。

 

そんな関根君は、高校時代からの悪友、紺野君に誘われて合コンに行きます。勿論、合コンでは、関根君が女子の注目をかっさらいます。(この時点では、酒に毒でも混ぜたいキャラですが)関根君は、女の子に趣味を聞かれて、答えられない自分に驚きます。やがて、自分は今までの人生の中で、自分から積極的にのめり込むような事はなかったのではないか。そんな思いに駆られると同時に、強い焦燥感に襲われます。

 

空っぽな自分に気が付いた関根君は、趣味探しを始めます。一見すると、「この程度の事で、空っぽって大げさ!」と読み始めは思うのですが、だんだんと読み進めて、関根君の背景が分かるにつれ、読んでる私達も、しだに彼の持つ空虚感のような物に納得しはじめてゆきます。(それでも、もてもては、ちょっと羨ましいですけどね)

 

あまり、今まで自分の意志で物事を決めた事のない、関根君の趣味選びは、若干迷走しました。そんな関根君が選んだのが何故か「手芸」でした。しかし、手芸用品店で、カウンターのお爺ちゃんに教えられる事になったのが、さらに、もうひとひねり加えて「手品」でした。

何故、手品…。

あれ、手芸用品をちょっと縮めてみると、手〇〇品…、手品?

…え?そうゆう事?

あ、納得…、納得…、

納得できるか!

 

…というような突っ込みはさておき、お爺ちゃんの手品教室に通いながら、手芸を始める事になった関根君ですが、そこで、運命の出会いが生まれてしまうのです。

手芸用品店のお爺ちゃんの孫娘、「如月 皿」ちゃん。

関根君も出会った頃は、単なる手芸屋さんの孫娘としか思わず、名前にすら関心を持たなかったのですが、関根君の中で、少しづつ、皿ちゃんが気になる存在になってゆきます。また、皿ちゃんの中でも、恋愛とは別の意味ではありますが、(主に庇護欲とか、同情とかいう意味合い)関根君が放っておけない存在になってゆきます。後で考えると、関根君の格好良さよりも、彼の残念さに気が付ける皿ちゃんざからこそ、関根君が惹きつけられたともいえるのかもしれません。そうなると、関根君は、惹かれる相手には、必ず引かれるという事になります。なんと、重い十字架でしょうか。

 

さて、ここで関根君の特徴を、もう一つ付け加えますと、「天然の女ったらし」なのです。天然なので、企まずに女性と「××」ができちゃいます。それは、それで羨ましい話なのですが、(漫画を読んでいると、全く羨ましくはないんですけどね)自分から好きな人にアプローチした事がないので、いざ、好きな人が出来て、恋愛を成就させようとすると、なかなかのズレっぷりが生じてきます。

 

勿論、一緒にいる皿ちゃんも、関根君の独特のすれかげんに翻弄される事になります。そうして、生まれる二人のすれ違いが、最初は、状況が特殊なので、少し違和感を覚えるのですが、見慣れてゆくに従って、とても初心で可愛らしい物に思え、応援したくなってしまいます。この辺の「読書が応援したくなる」という恋愛物の必須条件(私が勝手に思っているだけですが)が満たされていて、私は満足できました。

 

あと、これは私の深読みなのかもしれませんが、感想の冒頭で、この作品を私はファンタジーと評しましたが、それは関根君がもてすぎて、「こんな奴いるのかよ!」という疑問を持ってしまったというのもあるんですが、その他にも理由がありまして、それは、この作品で関根君が受けている苦しさって、私達、男性には何処が空々しい感じがしてしまうのですが、女性にとっては、まま起こりうる悲劇なのではないかなと思えてしまったのが切っ掛けでした。

 

例えば、関根君は外見が良すぎて、女の子がよってきて、すぐに肉体関係を迫られてしまいますが、やがて、女の子の方が「あなたには私はもったいない」というような言葉を残して消えてしまいます。

 

他にも、子供の頃の関根君は、かわいい子供だったので、大人に悪戯されて怖い思いを、何度もしますし、大人になってからは、同性からのやっかみも多く、恋愛にも思わぬ妨害が入ってしてしまいます。

 

読み進んでいくと、関根君の人生は、虐待とレイプで人間扱いされていないという印象すら受けます。一見すると、人は醜さを差別し、虐げる傾向があるように思えますが、取り分けて優れた者や、美しい者に対する好機の目や、嫉妬というものは、本人の気持ちよりも、周りの人間から見える外見や行動の印象のみで、その人間を判断して接するという点では、本質は何も変わらないのではないかという疑問すら感じてしまいます。

 

関根君は男性ですし、読んでいる私も男性です。実際のところ、女性と男性だと、置かれている社会的位置や、ジェンダーなんかも作用してくるので、まんま、男性の目線から関根君の苦しみを想像する事は難しいのかもしれませんが、その反面、関根君の立場を女性に置き換えてみると、結構、洒落にならない環境の中を生きてきたのだろうなとも思ってします。それをあえて、関根君を男性として描く事にファンタジー性を強く感じてしまうのです。

 

ファンタジーとは、現実とは違う設定の中で物語を進める事で、現実では分かりにくい「何か」を物語の中ではっきり認識してゆくという意味合いもあると私は思っています。

 

そういった意味を踏まえて、「関根君の恋」という作品を読んだ時に、男性であっても、女性であっても残る違和感そのものが、「関根君の恋」というファンタジーが伝えようとしたかった事の一つでもあるのではないだろうか…、などと考えずにはいられませんでした。

 

 

 


弟の夫

ゲイ・エロティック・アーティストという肩書で活動されている田亀源五郎先生の作品です。

確か、こちらの「弟の夫」が田亀源五郎先生、初の一般向け作品となっていた気がします。一般向け以外の作品は、わりとハードゲイ物に区分けされていたように思えます。

 

私も、何度か「薔薇族」かなんかで、他の作品を読みましたが、異様なくらいに登場人物のガタイがよいわりに、なんとも微妙な表情が描かれていた事に、好印象を持った事を覚えています。漫画の後書きを読みますと、田亀源五郎先生はパートナー(後書きでは「とうちゃん」と書かれています)とは、すでに24年を超えるお付き合いとの事だそうです。やはり、微妙な、表情の変化を作品で描けているという事は、同じ人と向き合い続けてゆくという事が大切なのかもしれませんね。

 

 

今回の作品「弟の夫」の登場人物も、閉口した時などに、なかなか良い表情をしてくれます。やはり、一般向けの作品で、性的マイノリティをリアルに扱おうとすると、登場人物の感情表現にしても、マジョリティな性を扱った作品に比べて、オープンな表現が少なくなるのがしぜんなのかなとは思いました。

 

…というよりも、性習慣というものは、かなりプライベートなものなので、LGBTの皆様も、異性愛者の皆様も、自分とは違う性習慣を持つ人と身近に接する場合があれば、どんなに偏見の少ない方でも、一度は、自分の中だけで捉えなおす時間が必要になるのだと思います。それは、自分が今まで生きてきた時間だったり、相手が生きてきた時間を想像したりと、色々な作業があるのでしょうが、それは、人が自分とは異質な何者かと向き合う時、絶対に必要となる「閉口」なのでしょう。「弟の夫」は、そういった意味の「閉口」をとても大切に扱っている作品なのではないかなと思いました。

 

主人公の折口弥一は、不動産賃貸業をしながら、小学生の娘「夏菜」を育てるシングルファーザーです。ある時、家を出てカナダで暮らしている双子の弟「良二」の訃報を聞かされます。そして、良二の結婚相手マイク=フラナガンが、良二の故郷である日本を訪れる事になります。

 

弥一は、弟の良二に学生の頃、「自分が同性愛者」であることを告げられました。それ以来、弟との間がギクシャクしてゆき、やがて、良二はカナダへと旅立ち、10年の歳月が経ちました。弟を非難する事も認める事もできず、弟からのカミングアウトをやり過ごす事しかできなかった弥一にとって、マイクの来日は、ずっと、見ないようにしてきた苦い記憶を見せつけられる物だったのかもしれません。

 

マイクが来日してから、弥一の微妙な日々は続きます。また、この時の弥一君が、常に、何か言いたそうで、何も言いたくなさそうな、所謂「いい顔」をするわけなんです。こういう表情、私は大好きです。また、この大人たちの微妙な距離の探り合いに、娘の夏菜ちゃんが、いいタイミングで爆弾を落としてくれるんですよね。

 

作品の中にも描かれているんですけれど、カナダでは同姓の結婚が認められています。そういった習慣の中で生きてきたマイクの行動は、日本にすむ私達には、異質と捉えられる物も多く、少なからず弥一や周りの人間のありふれた毎日を揺さぶります。その度、どちらかといえば、保守的な弥一は、困り顔になってしまいます。

 

しかし、娘の夏菜ちゃんや、そのクラスメート達のシンプルな捉え方を、目の当たりした弥一は、少しずつ「誰かを好きになる」「好きな人と一緒に過ごしたい」だから「結婚」というシンプルな考えを受け入れてゆきます。もしも、これが、弥一とマイクだけだったら、良二を失ったマイクの哀しみを間近に見たとしても、何処か、遠くの出来事のようにしかとらえられず、弥一の中に、同情以外の感情…、絆のような物が芽生える事はなかったのかもしれません。いつの時代の「騒ぐは大人ばかりなり」ということなのでしょうか。

 

そういった意味で言えば、弥一は、今の日本ではラッキーな人だったのかもしれません。もしも、夏菜ちゃんがいなければ、マイクと会えなければ、彼は、一生、弟への蟠りから、足を踏み出すことができなかったのかもしれません。

 

そもそも、弥一の立場からすれば。性的マイノリティと区分けされるマイクは、弥一の日常に飛び込んできた非日常なのかもしれませんが、マイクにとっては、良二と過ごした毎日こそが、かけがえのない日常であって、最愛の人を失った現在こそが、非日常なのでしょう。「弟の夫」は、マイクの日常と弥一の日常という二つの日常を描く事で、日常、非日常という分け方ではなく、同等の二つの違った日常が出会い、お互いが異質と思える事が、相手にとって大切な日常だと理解した時、いうなれば、男性だ女性、ゲイだ、ビアンだとか、そういった事を、一回、脱ぎ去り、シンプルに「人が人を愛する」という行為に立ち戻れた時に生まれる絆があるという事と、そういた絆と出会える事は、けっして不可能な夢物語というわけではなく、努力は必要だけれども、人と人の間で起こる、しぜんな心の動きなのだという事を伝えようとしてくれているようにも思えます。

 

また、亀田源五郎先生は、ゲイ・エロティック・アーティストを名乗るだけあって、社会的な主張もはっきり前に押し出しています。他の作品を、それ程、知っているわけではないのですが、「弟の夫」に関しては、ところどころにそう受け取れる箇所が見て取れます。漫画外のページで、LGBTの現状に関して書かれたページが設けられたていたり、何気に表紙絵のマイクがLGBTの社会運動を象徴するレインボーフラッグや、権利の主張を訴えるピンクトライアングルがプリントされている服を着ているなど、セクシャルマイノリティの今について知ってもらいたいという気持ちが、分かりやすい形で押し出されているように思えて印象的でした。そういった情報に触れられるという意味でも、面白い作品と言えるのではないでしょうか。


長閑の庭

アキヤマ香先生という方の作品ですね。

私、この方の作品を読むのは、「長閑の庭」が初めてです。以前、NHKBSプレミアムでドラマ化された作品のようですが、読み終わってから、その事を知りました。しかし、漫画を読み終わった後は、「そりゃ、ドラマ化されるよね」という気持ちと、ドラマよりも漫画の方を先に見る事ができて良かったという二つの気持ちが残りました。漫画。良かったす。

 

率直に感じたのは、沢山の感情を詰め込んだ作品だなという事でしょうか。何よりも、主人公の心理描写が細かく、その細かい心理描写を無駄なく作品の中に詰め込み、その主人公の気持ちの変化や、行動で起こるまわりの登場人物の心の動きや、態度の変化といった表現の細かさに惹きつけられました。

 

長閑の庭の主人公(朝比奈元子)は、ドイツ文学部の大学院に所属する大学院生です。彼女はアクティブに動き回るというタイプではありません。それだけに一つの行動を起こす時に、とても悩みます。なんなら、行動2の悩み8くらいの勢いで、年がら年中悩み続けています。幼い頃から、「しっかり者」というラベルを周りから張られた彼女は、いつの間にか、自分で選ぶ洋服も、しぜんと目立たない地味で黒い物ばかりとなってしまいました。そして、ついたあだ名は「シュバルツさん」です。ドイツ語で黒を意味するようです。なかなか、色をあだ名にするというのも、呼ぶ方も呼ばれる方も珍しい部類に属しているように思えます。恐らく、余程、特徴が無かったのかもしれません。

 

そんな彼女が初めての恋に落ちます。

相手は専任教授の榊教授です。朝比奈元子22歳、榊教授64歳。実に年の差42歳のカップルです。しかも、大学院の専任教授と大学院生です。朝比奈元子さんも、自分の気持ちが恋といえるのかどうかすら自信がもてませんし、榊教授も立場上の問題もあり、彼女の気持ちを受け入れられません。そんな二人のはっきりしない時期が、長々と続きます。それこそ、作品の九割は、はっきりしない状態での、朝比奈元子さんの心理描写です。

 

普通ならば、中だるみしそうな展開ですが、読んでいると、退屈を感じないのです。心理描写が細かく書き込まれ、表現方法が美しいので、むしろ、朝比奈元子さんの悩んでいる状態がアクティブにすら感じられるのです。確かに、悩むのも体を動かすのも、脳内と手足をという箇所の違いはあっても、活動している事には変わりはないのでしょうが、悩みを活動的に描くという事は、なかなか難しい事なのだと思います。

 

そして、何より、私が「長閑の庭」を気に入ったのは、嫉妬などの人間の負の感情を、ちゃんと描いていて、さらに、恋をして誰かを求めたり、愛する人に無償で何かを与えたいという感情も、嫉妬や不安、苛立ちをいった感情を同列に扱っているというところです。

 

確かに恋愛をしている時は、楽しくて、ポジティブな気持ちが目立ちますが、実際の人間の気持ちなんて、そんな単純なものでもなくて、誰かに好意を抱く時は、よほどの聖人君子でもない限り、多少の独占欲は出ますし、独占欲が出れば、嫉妬も生まれます。しかし、こういった感情を持たずに、自分以外の他者を「自分にとって特別な人間」として受け入れる事は難しいのではないでしょうか。

 

他者と向き合い、受け入れようとした時、生まれる様々な感情の中で、見栄えがいい感情と見栄えが悪い感情で分けて、見栄えがいい感情を集めて、「恋愛」の主要部分として、見栄えが悪い感情を副産物、あるいは「消したい物」として理解する。私達は、しぜんとそんな作業をしているのかもしれません。

 

でも、心のどこかに、疑問が残る人がいるのではないでしょうか。

苦しかった嫉妬や、憎しみ、不安や悪い妄想…。自分から生まれたそれらを「負」のままにしておいて良いのか?

「それじゃあ、あまりにも自分が可哀そうじゃないか…」

「あまりにも白々しいんじゃないか…」

この本を読んでいると、そんな正直で優しさにあふれた問いかけが聞こえてくるような気がします。

 

「長閑の庭」には、特別な起伏も、どんでん返しもなければ、手から光線もでなければ、ましてや、教会でお金を払って、呪文を唱えると死んだ仲間が蘇るような事はありません。

 

この物語の中に描かれているのは、とても当たり前の事です。しかし、「当たり前の事」だからといって、「大事ではない事」だとは限らないのです。

 

この物語の登場人物達は、人を好きになり、目の前の誰かに向き合おうとして自分と向き合わずにはいられなくなり、それでも幸を求め、大切な人たちに見守られながら、最愛の誰かと一緒に過ごす事が出来る、奇跡的で貴重な…、そして、驚く程に短い時間を、力の限り生きてゆきます。

 

それは、私達、人間が何万年と繰り返してきた当たり前の事で、また、「当たり前」だけど「とても大事な物」なのでしょう。

 

「長閑の庭」は、当たり前だけど大事な物を、大切に拾い集め、丹念に描かれた作品だと思います。私を始めとして、読んでいる人は、しぜんと引き込まれ、読み終わった後には、寂しさを伴いながらも前向きな読後感を味わえるのではないでしょうか。

 

 


六三四の剣

こちらは、かなり有名な作品だと思います。

作者の村上もとか先生は、「六三四の剣」だけではなく、「龍」「仁」と何度もヒットを飛ばしています。いわゆる、ヒットメーカーと言ってもいいのかもしれません。

 

ただ、随分、懐かしい作品である事は確かです。

何故、今、この作品を取り上げるかと言うと、古本屋さんの年末セールで全巻セットが売られていたからってだけなんですけどね。

 

正直、場所を取ると奥さんにも迷惑かけるだろうし、買うかどうしようか迷って、一度は諦めたのですが、その様子を隣で見ていた奥さんが、気を利かせて買ってきてくれたんですよね。お陰様で、正月は、懐かしい作品を読んでノスタルジーに浸れました。

 

 

この「六三四の剣」という作品は、わりと好きで子供の頃から見ていました。見ていたといっても、私の場合、始まりはテレビアニメですけどね。

 

私は、小学生の頃、剣道の道場にいて通っていまして、丁度、はまりやすいタイミングで「六三四の剣」と出会ったんでしょうね。

 

そもそも、私が剣道を始めた時の切掛けが、クラスの女の子に連れて行かれた事、その頃、時代劇が大好きで高橋英樹さんの「桃太郎侍」や里見浩太朗さんの「長七郎江戸日記」にはまりまくっていたというのがあるのですが、誘ってくれたクラスの女の子は、とっとと辞めちゃいましたし、「桃太郎侍」は放映が終わっちゃいましたし、そもそも、クラスにも剣道をやっている子供がいないので、あるある話も出来ませんし…。

 

そんな理由で、モチベーションが下がっていた辺りで出会ったのが、「六三四の剣」のテレビ放映でした。今、読み直すと、若干、行き過ぎのなのではないかという剣道一色の世界観にはまり、おかげ様で、そのまま、中学も剣道部、高校に入ったら、剣道部がないので自分で剣道部を作って、大学に入っても、一応、時たま、道場に通ったりと、剣道とは長い付き合いになってしまいました。社会人になると、さすがに、道場に行けなくなってしまいましたが、それでも、「六三四の剣」を書店で見かけると、つい、懐かしい気分になってしまいます。多分、当時は、私みたいな剣道少年、多かったんじゃないかなと思っています。

 

恐らく、妻も、そんな私の気持ちを見越して、買ってきてくれたのでしょう。豪華版全11巻セット、車のない私達夫婦の生活で、妻が一人で家まで持ち運ぶのは大変だった事でしょう。そんなこんなで、私の中で、竹刀でボコボコにされた記憶なんかと結びついていた「六三四の剣」に、新たに「妻の優しさ」という記憶が上書きされたわけです。

 

 

さて、「六三四の剣」そのものへと話を戻しますと、前述しましたが、これがまた、剣道一色なんですよ。寝ても覚めても剣道で、たまにラブコメがあるんですが、それこそ、ミックスフライ定食の使いまわしたパセリ程度の扱い、ちょっと、ピンク色の甘い香りの話になりそうになっても、結局は、登場人物がみんな剣道の藍色の汗臭い世界へと流れて行ってしまう。まさに、剣道ブラックホールのような世界観です。

 

原作者の村上もとか先生ですが、「六三四の剣」の前の連載も、「エーイ剣道」という剣道絡みの作品だったようです。代表作の「龍」なんかは、主人公が戦前の武道専門学校の剣道科に通っており、「龍」の初期段階などは、剣道描写が多くて、ほとんど剣道漫画と思えるほどでした。勿論、「六三四の剣」も剣道描写は細かく、そして、勢いのある線で描かれています。剣道自体が、わりと直線の動きが多いスポーツですので、勢いのある線で丹念に書き込まれた、剣道シーンはなかなかの圧巻です。

 

ただ、最近、調べて分かった事なのですが、村上もとか先生のインタビュー記事を見ると、意外な事に、先生ご自身は、実際に剣道をやる機会はなかったようです。なんでも、村上もとか先生のお父様が、子供の頃から剣道を続けられていて、その時の事を面白おかしく、村上もとか先生に話していらっしゃったそうでして、お父さんの話を聞く内に、村上もとか先生自身も、剣道への憧れが生まれたそうなのですが、地元の学校に剣道部がなく、結局は、ご自身が剣道をする事はなかったとの事です。

 

ちなみに、「六三四の剣」の内容は、奥様のつてやら何やらを使った、丹念な取材によるもののようです。逆に言えば、実体験に縛られず、入念な取材と資料との格闘があったからこそ、あれ程のヒット作が生まれてと言えるのかもしれません。

 

「六三四の剣」のストーリーについてですが、これは岩手県に生まれた「夏木六三四君」という男の子の生誕から、高校インターハイ優勝までの期間を書いた青春漫画です。勿論、青春なので、恋の春も訪れますが、それでも、結局は、剣道にゆきます。読む方は、その辺の剣道ブラックホールは覚悟しておいた方が良いと思います。

 

この夏木六三四君のお父さんですが、警察機動隊にお勤めの方で、「岩手の虎」と恐れられた剣道家、夏木栄一郎です。六三四君の名前の由来も、物語の中で、「宮本武蔵にちなんでつけられた」というセリフと「六月三日四時に生まれたから」というセリフがありました。恐らく、両方とも本当なのでしょうが、少年時代の六三四君は「六月三日四時」の方を採用していたようです。剣道をやっていて「宮本武蔵にちなんでつけられた…」と言うのは、六三四君自体、言うのが恥ずかしかった時があったのかもしれません。

 

夏木栄一郎さんは、全日本大会を優勝してしまうような選手なのですが、どうしても勝ちたい相手がおりまして、それが大学時代の先輩、奈良の柳生に住む、東堂国彦さんです。実は、夏木栄一郎さんが優勝した年の全日本大会には東堂国彦さんは出場しておらず、どうしても、それが心残りな夏木栄一郎さんは、東堂国彦さんと戦うべく全日本大会二連覇に乗り出します。

 

結局、夏木栄一郎さんは大会の準決勝で、東堂国彦さんと戦えるのですが、東堂国彦さんの鋭い突きを受け、場外に転落し、その時の怪我が元となり、夏木栄一郎さんは亡くなってしまいます。

 

大好きなお父さんを殺されたと思った六三四君は、東堂国彦さんへの復讐を誓います。

練習としては、表向き剣道を辞め、夜の山の中に入り、ひたすら生木に突きを入れ、何年もかけ、木の枝の突きで大木を貫通するという練習です。練習の成果あって、六三四君は小学四年生にして、すでに突き技で大木を貫通させる力を手に入れてしまいました。

 

一見すると、「それは、すでに剣道じゃないだろう」という突っ込みを入れたくなりますが、昔の剣道家には、一晩中突き技の練習をして、何本もの木を枯れさせたとか、新選組の斎藤一は、後年、木から吊るした空き缶を竹刀による突きで貫通させたというような逸話があったので、遥か昔はポピュラーな事だったのかもしれません。ちなみに、剣道家逸話みたいな物も作品の中には散りばめられていて、それも結構楽しめます。

 

大木を貫通させる化け物へと成長した六三四君は家出して、仇の東堂国彦の元に行きます。そして、そこで東堂国彦に完膚なきまでに打ちのめされ、東堂の夏木栄一郎への想いを聞かされ、剣道の奥深さを知り、仇討で頭の中がいっぱいになっていた自分を反省します。そして、東堂国彦の息子、東堂修羅と友情を育み、剣の道を進む事を、新たに決心します。

 

これ以降から、ストーリーは夏木六三四君と東堂修羅君のティーンエイジャー達の物語を中心に進んでゆきます。ここまで、お読みの方は、お気づきかと思いますが、「六三四の剣」って、剣道がテーマなんですけど、同じくらい重要なキーワードが、父と子なんですよね。この辺りは、村上もとか先生が剣道の話をお父様に聞かされた事などを考えてみると、何か、「この物語は、こうなるべくしてこういう物語になったのだな」という説得力のような物を感じてしまうのは、私だけでしょうか。

 

「六三四の剣」のストーリーラインを書いていて、ひとつ気が付いたのですが、「恋よりも剣の修行」「父の仇討」「ライバルとの切磋琢磨」「青春の揺れ動き」なんか、現代物の漫画というより、キーワードを集めてみると、場面は現代ではあるんですけれど、時代劇物みたいなんですよね。いや、もしかしたら、実際に、現代で時代劇を描くというコンセプトは、村上もとか先生の頭の何処かにあったのかもしれません。

 

そうなると、私なんかは、桃太郎侍や長七郎江戸日記にはまって、剣道やって、次に「六三四の剣」にはまって、剣道続けて…、大人になって、再び、読み直し…。こんな繰り返しを続けておりますが、結局は、ずっと、時代劇やチャンバラが好きなガキんちょのまんまで、あまり成長していないという事なのかもしれません。

 

若干、衝撃の事実的なものを、私自身は感じていますが、同時に「…まぁ、そんな物なのだろうね。うん、気づいていた」と、妙に納得してしまう自分もいるんですよね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


フランケン・ふらん

こちらは木々津克久先生の作品です。

ホラー物や推理物を、よくお書きになっている方のようです。

今回、ご紹介する「フランケン・ふらん」もコメディーではありますが、ホラーやミステリーの要素が組み込まれたエンターテインメント作品になっており、ジャンル分けをするのならば、サイエンスホラーコメディといったところでしょうか。

木々津克久先生は、いくつもの作品を手掛けてらっしゃいますが、同氏の他の作品と「フランケン・ふらん」のコラボ企画などもあります。私は、木々津克久作品の中では、「フランケン・ふらん」は代表作の一つといってもいいのではないかと思っています。

同作品の人気も高いようで、「チャンピオンLED20123月号で連載は終了したものの、同雑誌20194月号から続編が連載されており、20196月には単行本一巻が発売され、それを機にタイトルも「フランケン・ふらんFrantice」と改題されました。

 

本日、ご紹介するのは、「…Frantice」の方ではなく、前作の「フランケン・ふらん」の方です。

 

なぜ、旧作の方なのかですって?

答えは簡単、私がまだ「フランケン・ふらんFrantice」を買っていないというだけです。

 

主人公は、斑木ふらんという女子高生です。彼女は年若いにも関わらず、天才的外科医として医療業界では知る人ぞ知る人物でした。若干、女子高生兼、天才外科医という設定自体に、かなり無理を押し通したような印象を受けますが、細かい所に気にしていると、あまり物事が楽しめなくなるので、そのまま、話を先に進めます。

 

こちらのふらんちゃんですが、一見すると可愛い女の子なのですが、よく見ると、体中に縫い目があるし、頭にはフランケンシュタインの怪物さながらのボルトが入っています。話に興奮すると、目玉が転がり出して紅茶に落っこちたりと、ちょっと、普通の人間とは違います。本人曰く、新陳代謝もないそうです。

 

そもそも、彼女のお父さん(とされている)、斑木直光という人物は、生命工学の悪魔とまで言われた天才であり、その類まれない外科手術の腕で、戦時中は生存不可能とされた人間を救い、「蜘蛛の糸」という別名までもっています。

 

斑木直光は、戦後は放浪の旅へ出て、日本にはほとんど戻らなくなりました。研究所として使っている自宅の屋敷では、娘のふらんちゃんが留守を守りつつ斑木博士を待ち続けています。

 

さらに、ふらんちゃんには姉妹がいますが、その子達とふらんちゃん、また、斑木博士とも、血縁関係はありません。共通点は、斑木博士の手によって作られた(治された?)という事です。

 

ふらんちゃんの姉妹とされる女性達も、斑木博士を特別な人間として捉えている事は共通しているのですが、抱いている感情は様々なようで、主従関係のように尽くしている子もいれば、憎んでいる子もいます。一方、屋敷の中で、斑木博士を待ち続けるふらんちゃんの様子を見ていると父を待つ娘というよりは、恋人を待ちわびているようにも窺えます。

 

ちなみに、旧作の中で、本編に、斑木直光本人が登場する事はありません。ただ、彼女達の、それぞれの斑木直光への感情、関係の捉え方を見るうちに、読者の頭の中でも、斑木直光という人物が像を結ぶようになります。

 

この辺りの手法なんかは、フランスの戯曲家サミュエル=ベケットの「ゴドーを待ちながら」を彷彿とさせ、時々「斑木直光なんて人間は、もともと、いないんじゃないか」と深読みしそうになる時もありますが、そうなると、ストーリーそのものが成り立たなくなるので、きっと、斑木博士は存在していて、今も、何処かを旅しているのでしょう。

 

どういった経緯で、彼女達が斑木博士と出会い、手術を受けるに至ったかは、旧作「フランケン・ふらん」では、残念ながら明かされておりません。新作「フランケン・ふらんFrantice」の連載の中で、少しでも描かれていたら嬉しいなと期待しています。

 

さて、ふらんちゃんが、どのようにして斑木博士の留守を守っているかというと、お医者さんなので、やはり医療行為となります。時にはヤクザの親分と瓜二つの影武者作りをしたりとか…、いわゆる「やばい仕事」が多いです。まぁ、お値段は法外なんですが、腕は確かなので仕事は入ってきます。前述した通り、彼女は女子高生なので、おそらく、医師免許は持っていないのでしょう。

…体中縫い目だらけ。

…法外な値段。

…天才的外科医。

…無免許。

 

あれ?なんかこれって、どっかで聞いた事のある話ばかりですね。

そう、設定が結構、ブラックジャックなんですよね。

かなり、あからさまなので、最初の着想からブラックジャックのパロディ的な意味も考えていたんだろうと思います。

しかし、そうは言っても、「フランケン・ふらん」は完全にコメディです。ストーリーはその点を外れる事なく、独自のギャグ路線を走っています。

また、ブラックジャックの他にも、色々な小説や漫画のオマージュとも受け取れる場面が見受けられますので、この作品自体が、そういう楽しみ方も含んだ漫画なのでしょう。

 

さて、話をストーリーに戻しましょう。

そんなこんなで日々、仕事に精を出すふらんちゃんですが、裏稼業のような事はやっていても、基本的には博士に褒められたい良い子なので、「科学の発展と人類の幸福の為」「命は星の数ほどあってはかなげだけれど貴重」という、主張があり、それに従って行動しています。

 

しかし、読者から見ていると、彼女はかなりずれるのです。

例えば、モラルとか…? 

強いていえば、モラルとか? 

そして、主にモラル?

 

ここで断っておかなければいけないのは、前述した通り、彼女は基本的には「良い子」なのです。従って、けっして、モラルが無いわけではないのです。むしろ、生命倫理方面に関しては、他の誰よりも強い倫理観を持っているといってもいいかもしれません。しかし、彼女の場合、その手持ちのモラルが、すでにズレているのです。

 

そのズレっぷりは、明後日の方向どころか、ギャバンの魔空空間レベルの方向へと達しています…。また、この漫画の基本的な楽しみ方は、その辺にあるのでしょう。

 

そもそも、私にとってのサイエンスコメディの面白さというのは、「欠如の妙」と言えるでしょう。

 

これを日常的な場面で例えてみましょう。我々が何かしらの計画を立てたとして、それを実行に移した時、頭の中だけでは予測し得なかった事が現実におこり、計画とのギャップを感じるという事は、誰しもが経験した事があるのではないでしょうか。

 

そういう場合、往々にして、計画を綿密に立てた当事者よりも、周囲の他の人間の方が、わりと早めに違和感に気付いている場合が多い気がします。恐らく、集中して計画を立てた本人は、相互主観的な見方をすることが難しくなるという事なのかもしれません

 

ただ、これが極めて専門的な知識が必要とされる場面だった場合、周囲の人間は違和感を持ちながらも、「こういうものなのかな?」という疑問を持ちながら、黙視してしまいます。

この「どこでつっこみを入れていいのか分からない」という感覚が、こうしたサイエンスコメディの笑いの根本にあり、当事者たる主人公が世の中からズレていればいるほど、作品のパワーは増してゆくのだと私は思っています。

 

特に科学というのは、医療だろうが何だろうが、少なからず「思考実験」というものがあります。理論に基づき、思考を積み重ね、その過程で必要ない考えや情報を切り捨てながら、論理的転回を続けてゆき、ある結論に達して、それが仮説となるわけです。しかし、この「切り捨てる作業」で省いた物が、本当に切り捨てていい物だったのかという所に作品の創造性が入り込む余地というか、サイエンスコメディの肝があるように、私には思えます。

 

ある意味、喜劇も悲劇も、同じ事象であって、結局は、そのストーリーと読者との距離をどう設定するかという事なのではないかと私は思っています。

 

物語をより、読者に近く肉薄した形で表せば「現代医療のモラル」を問う作品になったり、「ありえない話」のように描けば、私の好きなサイエンスコメディになったりするのではないでしょうか。

 

逆に言えば、サイエンスコメディに限らず、コメディというものは、その中に悲劇を生み出すような問題提起や、悲しさを含んでいるのだとも言えるでしょう。また、そうした喜劇と悲劇の性質があるからこそ、サイエンスコメディを含む多くの喜劇は悲劇の元となる様々な悲しみを、ユーモアや、アイロニーなどの書き換える事ができるのではないでしょうか。

 

そうした意味でも「フランケン・ふらん」は、私の基準からは、私達に身近なテーマを孕みながらも、辛気臭い悲劇を蹴り飛ばすような喜劇のパワーを持った、正当派のサイエンスコメディとして位置づけられています。

 

ちなみに、この正統派というのは、あくまで私の基準から見た正統派ですので、けっして一般的なサイエンスコメディの基準というわけではありません。

それと、サイエンス物の漫画の感想でよく問われる、「作品に書かれた理論の真偽」とか「知識の真偽」といった物について、私は、興ざめしない程度であれば、特に拘りません。

いや、なんなら、「間違っていたとしても、ちゃんと騙してくれよ」というタイプです。それ以前に、間違った事書かれていても、どれが間違っているか、正しいかなんて、私には判別なんて、つけられませんからね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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Author:manga2525
漫画、映画、アニメ、ドラマ大好きです。
すっかりメディアにはまり、きっと、その筋の業界の方には、
私はなかなか良いお客さんなのだと思います。
でも、いいんです。よくよく分かっている事ですので、…というわけで、一人でテレビや本みてほくそ笑んでいるのもなんなので、人前で語ってみようと思い始めたブログです。

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