妻、小学生になる。

こちらの作品は、村田椰融という先生の作品ですが、私、あまりこの先生の作品を読んだ事ありません。っというより、失礼ながら「妻、小学生になる」で初めて、村田椰融先生のお名前を知りました。

 

あらすじは、亡くなった妻が十年ぶりに生まれ変わって家族の目の前に現れるという話です。ただ、亡くなってからすぐに生まれ変わったので、十歳の小学生になっていますよ。という話です。

 

私の浅薄な読書歴だと、蘇り物の多くが、故人が蘇って出会った所でラストだったり、そうでもなければ、数百年ぶりに巡り合って、お互いに前世で出会っていると把握して、なんかあれやこれやでキスして終わり、なんだったら、何か「化け物っぽい奴」と戦い始めちゃったり、そんなのが多い気がします。

 

ようは、生まれ変わる前や、生まれ変わったと自覚する前の話がメインにあったりする場合が多かったように記憶しています。勿論、「長い苦難をのりこえ、来世で結ばれなった二人が巡り合い…」それ自体で、感動的ですし、何度も使われてきたパターンなので、話も組み立てやすいという理由もあるのでしょう。

 

 

私も、離れた二人が巡り合えるよう願いながら、そういう物語を読んでおりましたが、読み終わった後に、ちょっとした疑問を感じずにはいられなかったんですよね。それは、「この人たち、このあとどうすんだ?」という疑問です。

 

物語というものが、エンターテーメントとして作られている以上、こうした疑問が野暮の極みと言われても仕方がないのですが、「再び、巡り合っても、現在の恋人がいたなら、後でしこりが残りそう…」とか、「前世とか、分かったら、後で気まずくなりそう…」とかそんな事を考えてしまいます。「妻、小学生になる」は、そんな疑問に焦点をあててくれた作品と言えるかもしれません。

 

主人公、新島貴恵は、ある日突然、前世の記憶が蘇り、過去の夫と娘の元を訪れます。そこで目の当たりにしたものは、自分の死後、10年の歳月を経ても、未だに、貴恵の死を受け入れられないでいる夫と娘の姿でした。

 

貴恵が現れた事で、夫と娘の生活はすこしずつ前むきになってゆきます。しかし、突然、起こった奇跡を、普通の社会で続ける事には様々な問題がありました。

 

蘇った貴恵は、10歳の少女に生まれ変わっており、現在は白石万理華という別の人間として生きています。10歳の少女が、大学生の娘がいる中年男の家に入り浸っていれば、それはもう怪しむなって方が無理です。

 

貴恵の方も、生まれ変わった現在の自分と、生まれ変わる前の新島家の自分との間で揺れ動く事が多くなります。

 

自分と一言に行っても、捉え方でいくつかの自分が存在します。一つ目が生命活動的な自分、二つ目は、自分が自分だと思う自分、三つ目は他人が捉えている「自分」。他にも色々な捉え方はあるのかもしれませんが、「妻、小学生になる」の貴恵というキャラクターの立場では、主に、この三つの「自分」が交錯しているように思えます。

 

まず、一つ目の生命活動的な「自分」は、貴恵の場合、十年前に消滅し、今は白石万理華の肉体として生存しています。二つ目の「自分」は、これまた難しく、一回消滅したものの、現在は、白石万理華という少女の「自分」と同時に存在しています。さらに、三つ目の「自分」、ようは、夫や娘、または、小学校の同級生、白石万理華の保護者が認識している彼女などです。この辺りを整理してみると、三つ目の「自分」に関しては、やはり気になるのは、恐ろしく、貴恵として、彼女の事を認識している他者が少ないという点です。

 

本来、健康的な状況だと、本人が意識している「自分」と、他者から認識されている「自分」というのは、完全とは言わないまでも、ある程度の近さがあってこそ、二つの自分の折り合いがとれるというものです。

 

それが、あまりにもかけ離れている場合は、よく聞く言葉ではあるのでしょうが「自我同一性拡散の危機」とも言えてしまうかもしれません。精神的には、良い環境とは言えないでしょう。本来、自我同一性とは、成長期は人生のステージでその都度、本人が悩みながら社会の中の自分と、自分が思う自分の間に折り合いをつけつつ獲得してゆくものです。

 

勿論、貴恵は、もう故人とは言っても、一度、成長し自我同一性を獲得し社会科された存在ですので、成長期の子供程、極端な影響は出にくいとは思いますが、忘れてならない事が一つあります。新島貴恵は、新島貴恵であると同時に、白石万理華という小学生だということです。そんな風に考えると、村田椰融先生が、この先の貴恵の変化をどのように描くのかが楽しみです。

 

また、一つの疑問が浮かびます。そんな過酷な状況に陥る事を、白石万理華という人格が何故受け入れたかという事です。「貴恵の家族を想う気持ちが奇跡を起こした」というのもありなのですが、貴恵の様子を見ていると、むしろ自分の死を乗り越えて欲しかったとまで言っているくらいなのですから、そういう分けではなさそうです。この答は、わりと簡単で、おそらく、過酷な状況であっても、「そうなる前の方が、万理華にとっては過酷だったから」なのだと思います。読み進めるうちに、万理華の家庭環境が描写されると、読んでいて暗くなりながらも納得できます。

 

そんな状況の中、新島家の中から、本気とも冗談ともとれない提案が出ます。「あと8年待って、白石万理華として夫と再び結婚する」という提案です。おそらく、白石万理華としての「自分」、新島貴恵としての「自分」を、そして、周りの他者からの見た時の「彼女達」それらを両立させる、一番、直接的な方法なのかもしれません。

 

同時に、その方法に無理がある事は、新島家全員が感じているのでしょう。しかし、そう決める事が、再び、大切な物を失ってしまうのではないかという不安から、逃れる事ができる方法だったのかもしれません。

 

読んでいる最初の内は、「8年後に結婚とか、おかしいだろう」と思いましたが、読み進める内に、妻が死んだ後の夫の焦燥ぶりややつれ方を見ていると、「そうする事のおかしさ」は感じているものの、「そうしない事の理由」が自分の中で曖昧になってきてしまい、どちらとも言えなくなってしまいます。「新島貴恵と白石万理華が、いかにして幸せになるか?」これこそが、この漫画のテーマだと私は勝手に思っていますので、ストーリーの経緯が、どこを終着点とするのかが、とても楽しみな作品だと思っております。

 

また、何度も書くようですが、貴恵を失った後の夫の崩れっぷりがなかなか凄いです。よく、後を追わなかったと褒めてあげたくなってしまいました。正直、妻を持つ身としては、読んでいて辛くなり、暫くの間、自分の奥さんに対して、いつもよりも1.5倍くらい優しくなりました。

 

 

ちなみに、奥さんに「妻、小学生になる」を見せ、いつものように暑苦しく語ってみた所、「逆で良かったね」という言葉をもらいました。

彼女が、何を言っているのか分からなかったので聞き返すと、

「タイトルだよ」と言われ、本のタイトルをもう一度、声に出して読みました。

「妻、小学生になる?」

「妻と小学生、逆にして見たら?」

「小学生、妻になる…、ああ、そりゃ駄目だ。捕まるわ」

「ね」

こんな何気ない会話が一緒に出来ることがやけに嬉しく思えました。

七つ屋志のぶの宝石匣

こちらは二ノ宮知子先生の作品です。

二ノ宮先生は、「のだめカンタービレ」が特に有名ですね。こちらの作品は、「のだめカンタービレ」の案を編集者に見せた際に、一緒に持って行った案の一つだったようです。その時は、「のだめカンタービレ」が連載される事になったようです。

 

「七つ屋志のぶの宝石匣」を読んでみると、プロの作家先生に対して、大変失礼な言い方なのですが、とても話の運び方が上手な方で、その上、下調べを細かくする方なんだなと感心しました。

 

「のだめカンタービレ」を読んだ時も、音楽業界事情や音大の話など詳しい方だなと思いましたが、「七つ屋志のぶの宝石匣」でも同じような印象を受けました。きっと、二ノ宮先生の作品の作り方自体が、とても取材や下調べを大切にするやり方なのだという事なのでしょう。

 

漫画のタイトルにも書かれている七つ屋というのは、江戸時代に使われた、質屋さんの隠語のような物らしいです。ちなみに、櫛屋さんは、94を足して、十三屋と読んだりしていたようです。江戸っ子は、こうした言葉遊びが大好きで、江戸文化の名残を思わせる言葉には、随所にこうした傾向が見られます。

 

また、質屋ではなく、あえて「七つ屋」という呼び方を使う事が、舞台である質屋さんが「江戸時代から続く質屋」という設定とも絡んでいるのでしょうが、なによりも、主人公の志のぶちゃんのキャラクターにとても似合っていて、しっくりきます。私の志のぶちゃんには、「質屋」よりも「七つ屋」が似合うという感想は、この漫画を読んだ多くの方に賛同していただけると思います。

 

物語の主人公は、江戸時代から続く質屋、倉田屋の孫娘、志のぶちゃんです。

彼女には、生まれる前から祖父に決められていた許嫁がいます。相手は、由緒正しいお家の北上顕定君です。

 

この顕定君、実は幼い頃に「倉田屋」に質草として預けられます。この時点で、かなり、「ギャグですか?」と聞き返したくなる経緯ですが、漫画を読んでいると、顕定君を預けた北上のお祖母様は真剣な事、この上ない様子です。

 

質草を預かっている期間が3か月だと、志のぶちゃんのお爺ちゃんが伝えると、顕定君のお祖母ちゃんは、必死の表情で「そこを何とか3年で!」普通なら、この時点でヤバい事が起きていると察知する筈なのです。なにせ、顕定君が質流れしたら、完全に人身売買ですからね。

 

しかし、色々な思惑が交錯し、契約成立!この辺の下りは、細かくは書きませんが、読んでいて面白かったので、まだ、読んでいない方は、是非、お確かめください。

 

そして、時は流れ、顕定君は28歳の若者となり、いつしか倉田屋を出て、真後ろのアパートに引っ越しました。ちなみに、お迎えは、まだ来ていません。そう、顕定君は、見事に質流れしてしまいました。

 

 

彼が「倉田屋」に質入れされた時、まだ、倉田屋には孫娘は生まれていませんでしたが、その後、無事、生まれた志のぶちゃんが顕定君の許嫁となりました。

 

ちなみに、顕定君、28歳。志のぶちゃん、よく中学生に見間違われる高校生。

 

子供の質入れと言い、高校生と大人の許嫁と言い、すったもんだがあったにしろ、児童福祉法的な奴は大丈夫なんでしょうか。

 

…でも、いいんです。

「漫画」ですから。

 

…それに、おもしろいし。

 

以上の一言で、全ての問題は解決できたと思います。

 

 

顕定君は、自分の家族がどうなったのかを探る為に調べ始めます。それも、志のぶちゃんには内緒で…、勿論、この辺りは、志のぶちゃんの安全を第一に考えての行動なのでしょうが、志のぶちゃんとしては、許嫁とは言われていても、全てを話してくれない顕定君に、壁を作られたような疎外感を感じてしまう時もあります。この辺のすれ違い具合は、私のラブコメセンサー的には「あり」です。

 

「七つ屋志のぶの宝石匣」の見どころは、顕定君と志のぶちゃんの、異様に進みの遅いラブコメというのもありますが、同じくらい面白いのが、顕定君の職場である宝石店や、志のぶちゃんの実家である質屋さんでのお客さんとのやり取りや、宝石鑑定の知識です。勿論、色々な品物がある質屋さんの中で、宝石がクローズアップされる理由も、ストーリー的にはちゃんとあるのですが、その辺は読む方がご自身で確認される方が良いと思います。

 

さらに、この志のぶちゃんは、「宝石の気を見る」という特殊能力があり、時折、占い希望のお客さんが質屋さんに来てしまう程です。しかし、一方、顕定君は有名宝石店の外商(店外の顧客まわりの営業ってところでしょうか)、その知識量や鑑定眼は同僚の中でも群を抜いています。志のぶちゃんの感覚的な鑑定眼と、顕定君の知識と経験に裏打ちされた、精巧な時計のような鑑定眼。二つの視点から、宝石という物を通して、見えてくる色々な人間ドラマが、とても面白いです。

 

また、志のぶちゃんと顕定君の組み合わせが、タイプが違うだけに、やたらとぶつかります。これがいいんですよ。

 

お互いがお互いの事を認めて、心配もしているのに、素直には交わらない距離感。「のだめカンタービレ」の時も、千秋君とのだめの距離感が面白くて読み進んでしまましたが、その時の距離感とは、また違った、独特の距離感です。

二ノ宮知子先生は、こういう独特の距離感を作るのが上手い作家さんなのでしょうね。

 

「七つ屋志のぶの宝石匣」自体が、まだ完結していない作品なので、あ~だ、こ~だ言うのも憚られますが、私は、買って読んで、損したとは欠片も思いませんでした。ラストが楽しみです。

 

サイレーン

菜々緒さんの主演でドラマになったサイレーンですが、聞いた話によると、ドラマと漫画だと登場人物の設定が少し違っているようですね。ドラマだとどうしても、役者さんのスケジュールなんかもあって、回数が決まっているから、上手く終了させるためには、色々、漫画と同じようにはいかないんでしょうね。

 

原作者の山崎紗也夏先生の作品は、「マイナス」と「マザールーシー」「しましま」くらいしか読んだことがないのですが、心に闇をかかえた人を描くのがとても上手くて、特に魅力的な女性キャラクターを生み出す方だと記憶しています。

 

山崎紗也夏先生の書くキャラクターは、いつも、最後まで謎を残しているように思えます。その謎が、「生きるとは何か?」「悪とは何か?」のような根源的な問いを投げかけてくれているようで、今まで読んだ作品は、全て綺麗に締めくくられているのですが、余韻とでも言うのでしょうか、良い意味での「後味の悪さ」が残る作品が多いなというのも、私が今まで読んだ山崎紗也夏先生の作品に共通して感じられる印象です。

 

 

今回の「サイレーン」は、猪熊夕貴と橘カラという二人の女性が主人公です。

やはり、読んでいて面白いのは、この二人の性格が、とても対照的でして、対照的すぎて、二人が何処か引き合ってしまうという点です。そして、二人の関係が近づくにつれ、物語が核心へと近づいてゆき、物語そのもののスピード感が増してゆくようで、読んでいる人間をひきつけます。また、猪熊と橘カラが引き合うのに呼応して、猪熊のまわりの人間や、橘の身近な人間も、事件の中に巻き込まれてゆきます。こうした過程での、物語の広がりや、登場人物同士のすれ違いなども、読んでいて楽しい点です。

 

猪熊さんとカラちゃんの関係を簡単に書くと、刑事と殺人者です。この辺のネタバレは、ドラマでも描かれていますし、物語の最初の方で判明しますので、読み進めてゆくのに、全く、支障はないと思いますので、ご容赦下さい。

 

物語の始まりは、風俗店で死体が発見される事で始まります。

警察は、関係者に昨夜のアリバイを聞くものの、店の従業員達は、全員、アリバイがはっきりしており、死体の携帯電話には遺書のような内容の文章が残されていました。

 

死体にも不審な所は見つけられず、警察の見識は、上司の判断で、自殺目的の急性アルコール中毒という見方で落ちつきます。

 

だが、現場を捜査する刑事の中に違和感を持ったものがいました。猪熊のパートナー里美です。里美は、事情聴取を受ける女性従業員の中に、見覚えのある顔を見つけます。

 

里美と猪熊は、事件が起きた時間、同僚たちとカラオケボックスで飲み会を開いていました。強かに酔いカラオケ店の廊下で寝ていた里美はが、目を醒まし立ち上がると、一人の綺麗な女性が里美の横を通り過ぎてゆきました。

 

その女性が、里美の目の前で事情聴取を受けている女性だったのです。女性は、里見達と同じカラオケボックスにいたにも関わらず、事件現場で警察から事情聴取を受けた時、「仕事が終わったらすぐに帰った」と警察には答えていました。

 

しかし、里美と猪熊は、「彼女の仕事柄、客との関係で店に知られたくない事でもあったのだろう」と考え、捜査上、大した影響はないと判断し、彼女への事情聴取をやり直すことはしませんでした。これが、猪熊と橘カラとの、最初の出会いです。

 

その後、カラちゃんは、猪熊を意識しながら、殺人を繰り返してゆきます。ただ、面白いのは、もともと、このカラちゃんの人殺しの動機が、憎しみや物欲だとか、そういう物ではない所なんですよね。金とか、恋愛とか分かりやすい動機なら、話も簡単なんですが、カラちゃんが殺す人を選ぶ基準は、「優しさ」や「正義感」といった内面部分で自分に持っていない物を持っている人。「ああ、凄いな、私には無いな…」と感心した相手だとの事です。

 

本来だったら、そういう相手に出会った時は、「私もこんな人になりたい」とか「友達になりたい」とか思うものなのでしょうが、カラちゃんの場合は、そこがちょっと違っているのです。

 

「この人は私に無い物を持っている」

⇒「羨ましい」

⇒「私はない」「喪失感」

⇒「自分に無くて、相手にあるのならば、相手を殺せば手に入る」

⇒「殺そう」

という思考回路のようでして、物語の中でのカラちゃんは、相手を殺すと、自分が羨ましいと思った部分が手に入ると思っているようでして、羨ましさや尊敬の念を感じる相手というのが、そのままカラちゃんの標的となるわけですね。ここが面白い所でして、「自分より優れた人間を抹殺すれば、全体的に自分の順位があがって、自分の方が優れた人間になる」とか理屈っぽい事は考えないんですよ、カラちゃんは…。

 

彼女にとっては、殺人は捕食に近い位置づけで、目的はあくまで相手と一体になり、取り込む事なんですよね。もしかしたら、彼女にとっては、精神的な特徴や美徳なんてものも、アミノ酸やら炭水化物なんかと同じ栄養素くらいにしか感じられていないのかもしれません。そして、猪熊夕貴の場合は、彼女の強い正義感が、カラちゃんを引きつけ、猪熊は命を狙われるようになってゆきます。正直言って、迷惑な話です。

 

さらに、裏を返せば、そのように素敵だなと感じてきた人は殺したくなってしまうので、カラちゃんと長く付き合えている人間というのは、本当に橋にも棒にもかからないというか、カラちゃんから見て魅力の欠片もない人ばかりという事になってしまいます。

 

方法は間違っていても、彼女なりに素晴らしい人間になろうと努力しているのだとも言えるわけなのですが、それにも関わらず、長く生きれば生きる程、まわりには魅力のない人間ばかりが集まり、自分は孤立してゆき、殺人のスキルだけが向上してゆくという何とも遣る瀬無い話です。

 

でも、いいんです。

カラちゃんは魅力あるから!

…漫画だしね。

 

しかし、この漫画の面白いのは、そこが到達地点ではない所です。猪熊と関わり、言葉を交わす内に、カラちゃんの中で、信仰にも近い、「自己実現の方法としての殺人」という思い込みが揺らぎ始めます。

 

カラちゃんの心の動き、誰とも共有できない衝動を持ちながらも、それを自分の中で理解しようとする辛さ、時に、自分と真っ向から向かい合う事がどんなに難しいかという事、様々な問題を孕みながら、物語は終焉へと向かいます。

 

カラちゃん、猪熊がどんな答えを出すのか、そもそも答えなんてものが存在するのか…。ドラマを見た方も、見なかった方も、是非、一度、ご自身の目でお確かめください。

 

 

 

 

 

 

 

 

童夢

大御所、大友克洋先生の作品です。

大友克洋先生といえば、最近、再び脚光を浴びた「AKIRA」が有名です。「AKIRA」が1982年に連載を開始し、「童夢」が掲載を終了したのが1981年なので、「AKIRA」の一つ前の作品という事になります。

 

AKIRA」の前作品とは言っても、その作画の緻密さや、物語の不気味さなんかは、素晴らしく完成されています。読むほうとしては、ただ、引き込まれます。「童夢」は、一巻完結の漫画なので、短い分、大友克洋先生の技術や世界観が凝縮されている感があり、人によっては、「「AKIRA」よりも、「童夢」の方が会っている」という意見も結構ききます。さすが、初の小説以外の日本SF大賞受賞作です。

 

私がこの漫画を古本屋で買った時は、小学生の頃でして、古本屋で見つけた時期を思い出し見ると、恐らく、初版からそんなに時間がたっていない頃だと思います。恐らく、買った人は、わりと早く、古本屋に売ってしまったのでしょうね。その時の古本屋での値段は250円から、300円くらいだったと思います。掃除もしていない、汚い古本屋のさらに埃だらけのブースに平積みにされた束の中にありまして、購入して家に持ち帰ったら、本が汚すぎて母に小言を言われたのを覚えています。

 

ちなみ、その時、一緒に買ったのが小島剛夕先生、佐々木守先生の「天地に夢想」でした。若いころの伊東一刀斎を物語にした時代劇画漫画です。買った理由は、ああいう劇画漫画って、青年誌やビジネス誌に載っている事が多かったので、わりと濡れ場がそのまま描かれたりしていたという理由が大きかったです。ほら、当時、子供に対してエロが少ない時代でしたから…、勿論、チャンバラ漫画が好きという理由もありますけどね。

 

 

話を戻しますと、大友克洋作品の絵の緻密さが常人離れしているのは、誰もが知っている事実ですが、それ以上に、こちらの「童夢」を見て感じてしまうのが、大友先生の作品にある不気味さなんですよね。

 

勿論、SFホラーとして描かれているので、不気味な雰囲気は大事なのですが、その方法が上手くて、セリフをあまり頼らないというか、きっと、大友克洋先生自身が、何の変哲もない空間の不気味さを熟知されているという事なのかもしれませんが、そういった空間を凄く効果的に使っているような気がするんですよね。興味のある方は、読んでいただければ分かると思うんですが、風景の描写が凄い説得力があって、それだけにコマの中にいる登場人物の心の動きや、その人が何故そこにるのか?または、どんな事に違和感を感じているのか?とか、そういった事が絵を見ているだけでやけに伝わってくる時が、結構あるんですよね。絵の説得力っていうか、きっと、大友作品の緻密な描写の結果だとは思うんですが、ちゃんと大友作品の絵を見ていると、セリフとか最小限でいいかなって…、なんなら無言のコマが続いても、漫画が成り立っちゃうんじゃないかなと思ってしまうのですよ。

 

実際、「童夢」には物語の中で、登場人物の背後関係を喋るような場面はあっても、何があって、こうなったというような筋道立てて、事の真相を名言するような場面はありません。

 

ストーリーは、ミステリー仕立てではじまります。

ある団地で殺人事件が起き、捜査線上に容疑者があがります。

認知症が進んだ一人暮らしの高齢者、チョーさん。

業務上の事故による怪我で失業し、アルコール依存症となった吉川。

知的障害がある成人男子、藤山良夫さん。

流産してからベビーカーを押しながら団地内を徘徊するようになった手塚さん。

全員、怪しいといえば怪しい事のこうえない不審人物達ですが、決め手となる証拠はなく、容疑者を絞る事も出来ません。やがて、捜査にあたる刑事たちも不審死に見舞われます。警察の焦りに反して、捜査は遅々として進まず、暗礁にのりあげていました。

 

そんな折、えっちゃんという女の子が団地に引っ越してきました。そして、吉川の息子や、藤山良夫と遊ぶようになります。彼女の登場で、歪なりにも、かろうじて保っていた団地内の見えないバランスが崩れ始めます。そこから一つの悪意が、ドミノ倒しのように、誰かの狂気を呼び覚まし、大惨事へとつながってゆきます。

 

作品の中で、チョーさんは「まるで子供」と言われ、藤山良夫は「頭は子供、体は男」と表現され、吉川は社会人=大人という意味では、大人になれない人間ということで、子供といえるかもしれません。また、手塚さんに至っては、「子供を諦める事ができない母親です」そして、えっちゃんも吉川の息子も、子供そのものです。

 

こうやって見てみると、事件の主要人物の多くは、何かしら、子供というキーワードが与えられてるように思えます。しかし、こうした設定と「童夢」というタイトルの関係をはっきりと示唆するようなキーワードは作品の中には見当たりません。

 

実際、「童夢」はSF超能力ものなので、「超能力者がいて、大惨事が起きた」というシンプルな受け取り方でも十分楽しめますし、また、大友克洋先生もどのような形で理解されたとしても、楽しませる事ができるという自信があったからこそ、敢えて、物語の捉え方を一方向のみに固めるような表現を避けたのだとも考える事はできます。

 

しかし、それだけに作品のタイトルにもなっている「童」「夢」というキーワードが、どう関わり、また、大友克洋先生の中で、どうような意味を持ちながら、物語が進んでいったのかと考えると、未だに、何度も読み返してしまい、そして、その度に少しだけ違った感想を持つことが出来る…。私にとって、「童夢」はそんな漫画です。

 

 

 

魔夜峰央の妖怪缶詰

最近、映画化され話題になった「翔んで埼玉」や「パタリロ」で有名な、魔夜峰央先生のホラー短編集です。

 

結構、子供の頃に買った漫画なんですけれども、改めて値段を見てみると980円。

当時の私は、小学生でした。考えてみれば30年以上昔の小学生だった私にとって、980円はかなりの大金でした。

 

何度も本屋に通い、買うか買わないかを迷った事を覚えています。ちなみに、やっと決断して買った時には、立ち読みしすぎて、中身の漫画はあらかた読み終えた後だったという落ちもあります。(その頃は、漫画にビニールなんて掛かってなかった時代でしたからね)

 

しかし、中身を全部知っていたとしても、少年ジャンプ一か月分の金額だったとしても、「手元に置きたい!」当時の私に、そう思わせるだけの力が、この漫画にはあった。という気持ちは、今でも揺らいではいません。

 

内容の構成は、「日本の妖怪」をモチーフにした作品、「西洋の妖怪」をモチーフにした作品、そして、短編毎の運びをよくするためのギャグ仕立ての「妖怪学雑感」で構成されています。

 

司会進行のような役割を担っている、この「妖怪学雑感」が魔夜峰央本人と、長期連載作品の「パタリロ」の主人公パタリロが掛け合いをしながら進めるという形式でした。今、思うと、ハリウッド映画やアメリカのテレビシリーズでやっていたオムニパス形式のホラー番組とかを意識していたのかもしれませんね。

 

当時の私は、すでに「パタリロ」にどはまりしており、お小遣いが貯まると、一冊ずつ「パタリロ」を買い集めていた子供でしたので、ホラー漫画云々よりも、むしろ、パタリロシリーズを収集する一環として購入したという意味が強かったのかもしれません。

 

勿論、私自身、当時からホラー物は大好きでして、ゲゲゲの鬼太郎(旧マガジンKC)や、デビルマン、日野日出志先生や、山岸涼子先生の作品などは買いあさり、読み漁りしていました。しかし、当時の私から見ると、他の作品に比べ、「妖怪缶詰」に収録されている作品は、恋愛を強く押し出した物が多く、正直、分かりにくさを感じてしまう作品もあり、むしろ、知っているキャラクターが登場するギャグテイストの「妖怪学雑感」の方が、読みやすかったのだと思います。

 

しかし、根が妖怪好きの子供なので、分からないなりに読み続けてゆくと、成長するとともに面白さを感じるようになり、次第に、魔夜峰央先生のエンターティメント色の強い、ホラー作品に魅せられるようになってゆきました。こういっては何ですが、私の恋愛観の基礎は、魔夜峰央先生、山岸涼子先生、吉田秋生先生あたりに教えられたと言っても過言ではりません。(それはそれで問題なのかもしれませんが)

 

そんなこんなで、最初は分かりすい「妖怪学雑感」やブラックユーモアの「パンドラキン」(パタリロのコミックスにも収録されてはいますが)なんかを読んで楽しんでいたのですが、年代が変わると同時に、他の短編も、どんどん楽しめるようになってゆきました。さらに、そうやって楽しみの幅が広がるにつれて、本の構成に対する印象も変わり、最初はギャグ漫画としてのみ楽しんでいた「妖怪学雑感」を他の物語の兼ね合いの中で、「妖怪缶詰」という作品を完成するために、とても重要な物として理解するようになっていきました。

 

さて、本編のホラー短編ですが、基本的には魔夜峰央先生は少女漫画の先生なので、絵や話はとても綺麗です。なんなら「耽美派」という言葉を使ってもいいと思います。

 

集められた作品の数々は、魔夜先生が長い間、長編連載とは別に、各誌の短編読切で、まばらに掲載してきたものを集めた短編集なので、作風や絵柄にもいくらかばらつきがあります。ただ、どの作品にも一貫して言えるのが造形美、様式美に対する拘りなのかなと思います。

 

また、長い時間でできた作品のばらつきとは言いましたが、それらの違和感を埋めるのに、「妖怪学雑感」がとても役立っています。過去の作品を並べる中で、進行の主軸に、現在の魔夜峰央先生の作品(それも超長期連載のパタリロを使った作品です)がある事で、過去の作品を読んだ後に、その都度、フォーマットしてもらえるような感覚があるので、少し悲しい話でも重くなりすぎず、安心感を持って読み進められました。

 

特に私が好きな作品は、花屋の美少年ミロールが活躍する「怪奇生花店」。イケメン陶芸家の闇を描いた「女妖観音」。少しずつ訳の分からない何かに日常が浸食される恐怖を描いた「怪奇スペースハンド」。一日中穴を掘り続ける怪しい男が出てくるブラックユーモア、「焼肉はいかが?」なんかがあげられます。

 

どれも怖くてトイレに行けなくなるという類のホラーとはちょっと違うかもしれませんが、物語として、それぞれの完成度が高いので、作品一つの面白さを見ても、また、短編作品集という視点から見ても、まさに魔夜峰央ホラーショーと言って良いほど完成度の高い作品だと思います。

 

少なくとも魔夜峰央先生の作品がお好きな方は、持っていて損はしない。…いや、持っていないと損をする作品と言えるかもしれません。

 

 

 

プロフィール

manga2525

Author:manga2525
漫画、映画、アニメ、ドラマ大好きです。
すっかりメディアにはまり、きっと、その筋の業界の方には、
私はなかなか良いお客さんなのだと思います。
でも、いいんです。よくよく分かっている事ですので、…というわけで、一人でテレビや本みてほくそ笑んでいるのもなんなので、人前で語ってみようと思い始めたブログです。

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