フランケン・ふらん
こちらは木々津克久先生の作品です。
ホラー物や推理物を、よくお書きになっている方のようです。
今回、ご紹介する「フランケン・ふらん」もコメディーではありますが、ホラーやミステリーの要素が組み込まれたエンターテインメント作品になっており、ジャンル分けをするのならば、サイエンスホラーコメディといったところでしょうか。
木々津克久先生は、いくつもの作品を手掛けてらっしゃいますが、同氏の他の作品と「フランケン・ふらん」のコラボ企画などもあります。私は、木々津克久作品の中では、「フランケン・ふらん」は代表作の一つといってもいいのではないかと思っています。
同作品の人気も高いようで、「チャンピオンLED」2012年3月号で連載は終了したものの、同雑誌2019年4月号から続編が連載されており、2019年6月には単行本一巻が発売され、それを機にタイトルも「フランケン・ふらんFrantice」と改題されました。
本日、ご紹介するのは、「…Frantice」の方ではなく、前作の「フランケン・ふらん」の方です。
なぜ、旧作の方なのかですって?
答えは簡単、私がまだ「フランケン・ふらんFrantice」を買っていないというだけです。
主人公は、斑木ふらんという女子高生です。彼女は年若いにも関わらず、天才的外科医として医療業界では知る人ぞ知る人物でした。若干、女子高生兼、天才外科医という設定自体に、かなり無理を押し通したような印象を受けますが、細かい所に気にしていると、あまり物事が楽しめなくなるので、そのまま、話を先に進めます。
こちらのふらんちゃんですが、一見すると可愛い女の子なのですが、よく見ると、体中に縫い目があるし、頭にはフランケンシュタインの怪物さながらのボルトが入っています。話に興奮すると、目玉が転がり出して紅茶に落っこちたりと、ちょっと、普通の人間とは違います。本人曰く、新陳代謝もないそうです。
そもそも、彼女のお父さん(とされている)、斑木直光という人物は、生命工学の悪魔とまで言われた天才であり、その類まれない外科手術の腕で、戦時中は生存不可能とされた人間を救い、「蜘蛛の糸」という別名までもっています。
斑木直光は、戦後は放浪の旅へ出て、日本にはほとんど戻らなくなりました。研究所として使っている自宅の屋敷では、娘のふらんちゃんが留守を守りつつ斑木博士を待ち続けています。
さらに、ふらんちゃんには姉妹がいますが、その子達とふらんちゃん、また、斑木博士とも、血縁関係はありません。共通点は、斑木博士の手によって作られた(治された?)という事です。
ふらんちゃんの姉妹とされる女性達も、斑木博士を特別な人間として捉えている事は共通しているのですが、抱いている感情は様々なようで、主従関係のように尽くしている子もいれば、憎んでいる子もいます。一方、屋敷の中で、斑木博士を待ち続けるふらんちゃんの様子を見ていると父を待つ娘というよりは、恋人を待ちわびているようにも窺えます。
ちなみに、旧作の中で、本編に、斑木直光本人が登場する事はありません。ただ、彼女達の、それぞれの斑木直光への感情、関係の捉え方を見るうちに、読者の頭の中でも、斑木直光という人物が像を結ぶようになります。
この辺りの手法なんかは、フランスの戯曲家サミュエル=ベケットの「ゴドーを待ちながら」を彷彿とさせ、時々「斑木直光なんて人間は、もともと、いないんじゃないか」と深読みしそうになる時もありますが、そうなると、ストーリーそのものが成り立たなくなるので、きっと、斑木博士は存在していて、今も、何処かを旅しているのでしょう。
どういった経緯で、彼女達が斑木博士と出会い、手術を受けるに至ったかは、旧作「フランケン・ふらん」では、残念ながら明かされておりません。新作「フランケン・ふらんFrantice」の連載の中で、少しでも描かれていたら嬉しいなと期待しています。
さて、ふらんちゃんが、どのようにして斑木博士の留守を守っているかというと、お医者さんなので、やはり医療行為となります。時にはヤクザの親分と瓜二つの影武者作りをしたりとか…、いわゆる「やばい仕事」が多いです。まぁ、お値段は法外なんですが、腕は確かなので仕事は入ってきます。前述した通り、彼女は女子高生なので、おそらく、医師免許は持っていないのでしょう。
…体中縫い目だらけ。
…法外な値段。
…天才的外科医。
…無免許。
あれ?なんかこれって、どっかで聞いた事のある話ばかりですね。
そう、設定が結構、ブラックジャックなんですよね。
かなり、あからさまなので、最初の着想からブラックジャックのパロディ的な意味も考えていたんだろうと思います。
しかし、そうは言っても、「フランケン・ふらん」は完全にコメディです。ストーリーはその点を外れる事なく、独自のギャグ路線を走っています。
また、ブラックジャックの他にも、色々な小説や漫画のオマージュとも受け取れる場面が見受けられますので、この作品自体が、そういう楽しみ方も含んだ漫画なのでしょう。
さて、話をストーリーに戻しましょう。
そんなこんなで日々、仕事に精を出すふらんちゃんですが、裏稼業のような事はやっていても、基本的には博士に褒められたい良い子なので、「科学の発展と人類の幸福の為」「命は星の数ほどあってはかなげだけれど貴重」という、主張があり、それに従って行動しています。
しかし、読者から見ていると、彼女はかなりずれるのです。
例えば、モラルとか…?
強いていえば、モラルとか?
そして、主にモラル?
ここで断っておかなければいけないのは、前述した通り、彼女は基本的には「良い子」なのです。従って、けっして、モラルが無いわけではないのです。むしろ、生命倫理方面に関しては、他の誰よりも強い倫理観を持っているといってもいいかもしれません。しかし、彼女の場合、その手持ちのモラルが、すでにズレているのです。
そのズレっぷりは、明後日の方向どころか、ギャバンの魔空空間レベルの方向へと達しています…。また、この漫画の基本的な楽しみ方は、その辺にあるのでしょう。
そもそも、私にとってのサイエンスコメディの面白さというのは、「欠如の妙」と言えるでしょう。
これを日常的な場面で例えてみましょう。我々が何かしらの計画を立てたとして、それを実行に移した時、頭の中だけでは予測し得なかった事が現実におこり、計画とのギャップを感じるという事は、誰しもが経験した事があるのではないでしょうか。
そういう場合、往々にして、計画を綿密に立てた当事者よりも、周囲の他の人間の方が、わりと早めに違和感に気付いている場合が多い気がします。恐らく、集中して計画を立てた本人は、相互主観的な見方をすることが難しくなるという事なのかもしれません
ただ、これが極めて専門的な知識が必要とされる場面だった場合、周囲の人間は違和感を持ちながらも、「こういうものなのかな?」という疑問を持ちながら、黙視してしまいます。
この「どこでつっこみを入れていいのか分からない」という感覚が、こうしたサイエンスコメディの笑いの根本にあり、当事者たる主人公が世の中からズレていればいるほど、作品のパワーは増してゆくのだと私は思っています。
特に科学というのは、医療だろうが何だろうが、少なからず「思考実験」というものがあります。理論に基づき、思考を積み重ね、その過程で必要ない考えや情報を切り捨てながら、論理的転回を続けてゆき、ある結論に達して、それが仮説となるわけです。しかし、この「切り捨てる作業」で省いた物が、本当に切り捨てていい物だったのかという所に作品の創造性が入り込む余地というか、サイエンスコメディの肝があるように、私には思えます。
ある意味、喜劇も悲劇も、同じ事象であって、結局は、そのストーリーと読者との距離をどう設定するかという事なのではないかと私は思っています。
物語をより、読者に近く肉薄した形で表せば「現代医療のモラル」を問う作品になったり、「ありえない話」のように描けば、私の好きなサイエンスコメディになったりするのではないでしょうか。
逆に言えば、サイエンスコメディに限らず、コメディというものは、その中に悲劇を生み出すような問題提起や、悲しさを含んでいるのだとも言えるでしょう。また、そうした喜劇と悲劇の性質があるからこそ、サイエンスコメディを含む多くの喜劇は悲劇の元となる様々な悲しみを、ユーモアや、アイロニーなどの書き換える事ができるのではないでしょうか。
そうした意味でも「フランケン・ふらん」は、私の基準からは、私達に身近なテーマを孕みながらも、辛気臭い悲劇を蹴り飛ばすような喜劇のパワーを持った、正当派のサイエンスコメディとして位置づけられています。
ちなみに、この正統派というのは、あくまで私の基準から見た正統派ですので、けっして一般的なサイエンスコメディの基準というわけではありません。
それと、サイエンス物の漫画の感想でよく問われる、「作品に書かれた理論の真偽」とか「知識の真偽」といった物について、私は、興ざめしない程度であれば、特に拘りません。
いや、なんなら、「間違っていたとしても、ちゃんと騙してくれよ」というタイプです。それ以前に、間違った事書かれていても、どれが間違っているか、正しいかなんて、私には判別なんて、つけられませんからね。

