童夢

大御所、大友克洋先生の作品です。

大友克洋先生といえば、最近、再び脚光を浴びた「AKIRA」が有名です。「AKIRA」が1982年に連載を開始し、「童夢」が掲載を終了したのが1981年なので、「AKIRA」の一つ前の作品という事になります。

 

AKIRA」の前作品とは言っても、その作画の緻密さや、物語の不気味さなんかは、素晴らしく完成されています。読むほうとしては、ただ、引き込まれます。「童夢」は、一巻完結の漫画なので、短い分、大友克洋先生の技術や世界観が凝縮されている感があり、人によっては、「「AKIRA」よりも、「童夢」の方が会っている」という意見も結構ききます。さすが、初の小説以外の日本SF大賞受賞作です。

 

私がこの漫画を古本屋で買った時は、小学生の頃でして、古本屋で見つけた時期を思い出し見ると、恐らく、初版からそんなに時間がたっていない頃だと思います。恐らく、買った人は、わりと早く、古本屋に売ってしまったのでしょうね。その時の古本屋での値段は250円から、300円くらいだったと思います。掃除もしていない、汚い古本屋のさらに埃だらけのブースに平積みにされた束の中にありまして、購入して家に持ち帰ったら、本が汚すぎて母に小言を言われたのを覚えています。

 

ちなみ、その時、一緒に買ったのが小島剛夕先生、佐々木守先生の「天地に夢想」でした。若いころの伊東一刀斎を物語にした時代劇画漫画です。買った理由は、ああいう劇画漫画って、青年誌やビジネス誌に載っている事が多かったので、わりと濡れ場がそのまま描かれたりしていたという理由が大きかったです。ほら、当時、子供に対してエロが少ない時代でしたから…、勿論、チャンバラ漫画が好きという理由もありますけどね。

 

 

話を戻しますと、大友克洋作品の絵の緻密さが常人離れしているのは、誰もが知っている事実ですが、それ以上に、こちらの「童夢」を見て感じてしまうのが、大友先生の作品にある不気味さなんですよね。

 

勿論、SFホラーとして描かれているので、不気味な雰囲気は大事なのですが、その方法が上手くて、セリフをあまり頼らないというか、きっと、大友克洋先生自身が、何の変哲もない空間の不気味さを熟知されているという事なのかもしれませんが、そういった空間を凄く効果的に使っているような気がするんですよね。興味のある方は、読んでいただければ分かると思うんですが、風景の描写が凄い説得力があって、それだけにコマの中にいる登場人物の心の動きや、その人が何故そこにるのか?または、どんな事に違和感を感じているのか?とか、そういった事が絵を見ているだけでやけに伝わってくる時が、結構あるんですよね。絵の説得力っていうか、きっと、大友作品の緻密な描写の結果だとは思うんですが、ちゃんと大友作品の絵を見ていると、セリフとか最小限でいいかなって…、なんなら無言のコマが続いても、漫画が成り立っちゃうんじゃないかなと思ってしまうのですよ。

 

実際、「童夢」には物語の中で、登場人物の背後関係を喋るような場面はあっても、何があって、こうなったというような筋道立てて、事の真相を名言するような場面はありません。

 

ストーリーは、ミステリー仕立てではじまります。

ある団地で殺人事件が起き、捜査線上に容疑者があがります。

認知症が進んだ一人暮らしの高齢者、チョーさん。

業務上の事故による怪我で失業し、アルコール依存症となった吉川。

知的障害がある成人男子、藤山良夫さん。

流産してからベビーカーを押しながら団地内を徘徊するようになった手塚さん。

全員、怪しいといえば怪しい事のこうえない不審人物達ですが、決め手となる証拠はなく、容疑者を絞る事も出来ません。やがて、捜査にあたる刑事たちも不審死に見舞われます。警察の焦りに反して、捜査は遅々として進まず、暗礁にのりあげていました。

 

そんな折、えっちゃんという女の子が団地に引っ越してきました。そして、吉川の息子や、藤山良夫と遊ぶようになります。彼女の登場で、歪なりにも、かろうじて保っていた団地内の見えないバランスが崩れ始めます。そこから一つの悪意が、ドミノ倒しのように、誰かの狂気を呼び覚まし、大惨事へとつながってゆきます。

 

作品の中で、チョーさんは「まるで子供」と言われ、藤山良夫は「頭は子供、体は男」と表現され、吉川は社会人=大人という意味では、大人になれない人間ということで、子供といえるかもしれません。また、手塚さんに至っては、「子供を諦める事ができない母親です」そして、えっちゃんも吉川の息子も、子供そのものです。

 

こうやって見てみると、事件の主要人物の多くは、何かしら、子供というキーワードが与えられてるように思えます。しかし、こうした設定と「童夢」というタイトルの関係をはっきりと示唆するようなキーワードは作品の中には見当たりません。

 

実際、「童夢」はSF超能力ものなので、「超能力者がいて、大惨事が起きた」というシンプルな受け取り方でも十分楽しめますし、また、大友克洋先生もどのような形で理解されたとしても、楽しませる事ができるという自信があったからこそ、敢えて、物語の捉え方を一方向のみに固めるような表現を避けたのだとも考える事はできます。

 

しかし、それだけに作品のタイトルにもなっている「童」「夢」というキーワードが、どう関わり、また、大友克洋先生の中で、どうような意味を持ちながら、物語が進んでいったのかと考えると、未だに、何度も読み返してしまい、そして、その度に少しだけ違った感想を持つことが出来る…。私にとって、「童夢」はそんな漫画です。

 

 

 

魔夜峰央の妖怪缶詰

最近、映画化され話題になった「翔んで埼玉」や「パタリロ」で有名な、魔夜峰央先生のホラー短編集です。

 

結構、子供の頃に買った漫画なんですけれども、改めて値段を見てみると980円。

当時の私は、小学生でした。考えてみれば30年以上昔の小学生だった私にとって、980円はかなりの大金でした。

 

何度も本屋に通い、買うか買わないかを迷った事を覚えています。ちなみに、やっと決断して買った時には、立ち読みしすぎて、中身の漫画はあらかた読み終えた後だったという落ちもあります。(その頃は、漫画にビニールなんて掛かってなかった時代でしたからね)

 

しかし、中身を全部知っていたとしても、少年ジャンプ一か月分の金額だったとしても、「手元に置きたい!」当時の私に、そう思わせるだけの力が、この漫画にはあった。という気持ちは、今でも揺らいではいません。

 

内容の構成は、「日本の妖怪」をモチーフにした作品、「西洋の妖怪」をモチーフにした作品、そして、短編毎の運びをよくするためのギャグ仕立ての「妖怪学雑感」で構成されています。

 

司会進行のような役割を担っている、この「妖怪学雑感」が魔夜峰央本人と、長期連載作品の「パタリロ」の主人公パタリロが掛け合いをしながら進めるという形式でした。今、思うと、ハリウッド映画やアメリカのテレビシリーズでやっていたオムニパス形式のホラー番組とかを意識していたのかもしれませんね。

 

当時の私は、すでに「パタリロ」にどはまりしており、お小遣いが貯まると、一冊ずつ「パタリロ」を買い集めていた子供でしたので、ホラー漫画云々よりも、むしろ、パタリロシリーズを収集する一環として購入したという意味が強かったのかもしれません。

 

勿論、私自身、当時からホラー物は大好きでして、ゲゲゲの鬼太郎(旧マガジンKC)や、デビルマン、日野日出志先生や、山岸涼子先生の作品などは買いあさり、読み漁りしていました。しかし、当時の私から見ると、他の作品に比べ、「妖怪缶詰」に収録されている作品は、恋愛を強く押し出した物が多く、正直、分かりにくさを感じてしまう作品もあり、むしろ、知っているキャラクターが登場するギャグテイストの「妖怪学雑感」の方が、読みやすかったのだと思います。

 

しかし、根が妖怪好きの子供なので、分からないなりに読み続けてゆくと、成長するとともに面白さを感じるようになり、次第に、魔夜峰央先生のエンターティメント色の強い、ホラー作品に魅せられるようになってゆきました。こういっては何ですが、私の恋愛観の基礎は、魔夜峰央先生、山岸涼子先生、吉田秋生先生あたりに教えられたと言っても過言ではりません。(それはそれで問題なのかもしれませんが)

 

そんなこんなで、最初は分かりすい「妖怪学雑感」やブラックユーモアの「パンドラキン」(パタリロのコミックスにも収録されてはいますが)なんかを読んで楽しんでいたのですが、年代が変わると同時に、他の短編も、どんどん楽しめるようになってゆきました。さらに、そうやって楽しみの幅が広がるにつれて、本の構成に対する印象も変わり、最初はギャグ漫画としてのみ楽しんでいた「妖怪学雑感」を他の物語の兼ね合いの中で、「妖怪缶詰」という作品を完成するために、とても重要な物として理解するようになっていきました。

 

さて、本編のホラー短編ですが、基本的には魔夜峰央先生は少女漫画の先生なので、絵や話はとても綺麗です。なんなら「耽美派」という言葉を使ってもいいと思います。

 

集められた作品の数々は、魔夜先生が長い間、長編連載とは別に、各誌の短編読切で、まばらに掲載してきたものを集めた短編集なので、作風や絵柄にもいくらかばらつきがあります。ただ、どの作品にも一貫して言えるのが造形美、様式美に対する拘りなのかなと思います。

 

また、長い時間でできた作品のばらつきとは言いましたが、それらの違和感を埋めるのに、「妖怪学雑感」がとても役立っています。過去の作品を並べる中で、進行の主軸に、現在の魔夜峰央先生の作品(それも超長期連載のパタリロを使った作品です)がある事で、過去の作品を読んだ後に、その都度、フォーマットしてもらえるような感覚があるので、少し悲しい話でも重くなりすぎず、安心感を持って読み進められました。

 

特に私が好きな作品は、花屋の美少年ミロールが活躍する「怪奇生花店」。イケメン陶芸家の闇を描いた「女妖観音」。少しずつ訳の分からない何かに日常が浸食される恐怖を描いた「怪奇スペースハンド」。一日中穴を掘り続ける怪しい男が出てくるブラックユーモア、「焼肉はいかが?」なんかがあげられます。

 

どれも怖くてトイレに行けなくなるという類のホラーとはちょっと違うかもしれませんが、物語として、それぞれの完成度が高いので、作品一つの面白さを見ても、また、短編作品集という視点から見ても、まさに魔夜峰央ホラーショーと言って良いほど完成度の高い作品だと思います。

 

少なくとも魔夜峰央先生の作品がお好きな方は、持っていて損はしない。…いや、持っていないと損をする作品と言えるかもしれません。

 

 

 

なのはな

こちらも萩尾望都先生の作品です。

内容は、東日本震災、おもに福島原発をテーマにした短編集となります。収録されている短編は、全てファンタジーです。いや、ファンタジーというよりも、寓話と言ってよいかもしれません。

 

収録されている短編は、全部で6

●なのはな

●プルート夫人

●雨の夜―ウラノス伯爵―

●サロメ20XX

●なのはなー(「幻想」銀河鉄道の夜)

●福島ドライブ

となっています。

 

「なのはな」

コミックスのタイトルにもなっている「なのはな」です。他にも、もう一遍、「なのはな」というタイトルの作品があります。内容の違いとしては、現代を舞台とした漫画で、セリフのやり取りのある通常の形式で書かれている物を「なのはな」と名付けているように思えます。

主人公は、東日本震災後の福島県に住む小学生の女の子、ナホちゃんです。ナホちゃんは、震災の津波でお祖母ちゃんを失っています。

 

ナホちゃん家族は生き残り、今までとは違う場所に住んでいますが、お爺ちゃんは、お祖母ちゃんの死を受け入れる事が出来ず。未だに、お祖母ちゃんの帰りを待っています。

 

しかし、お爺ちゃんだけではなく、誰もがお祖母ちゃんが死んだ事を受け入れられず、大切な人が突然消えてしまった空虚感を胸の中で押し殺しながら、毎日を暮らしていました。

 

そんな中、ナホちゃんは不思議な夢を繰り返し見るようになりました。

夢の中のナホは、チェルノブイリにいて、死んだはずのお祖母ちゃんを必死に助けようとしています。そして、そこにはお祖母ちゃん以外にも、見知らぬ女の子が、人形を抱いて立っていました。

 

ある日、お祖母ちゃんのお友達の藤川さんが遊びに来てくれました。そこでお祖母ちゃんがチェルノブイリ原発の被害を受けたウクライナの子供達に、人形を作ってあげていた事を知ります。人形を渡された子供達の写真を見せてもらい、ナホちゃんは驚きました。そこには、夢で見た女の子が写っており、女の子が持っていた人形も写っていたからです。そして、ナホちゃんは、夢の中で女の子と話をします…。

 

「プルート夫人」

近世ヨーロッパの法廷。居並ぶ紳士淑女、知識人たち。彼等は、ある者の真偽を確かめる為に集められた。彼女の名は「プルート夫人」その眼差しを向けられた者は恋に落ち、声を聴いた者は夜も眠れない。

 

絶対の力、絶世の美貌、彼女は世界中の人間に富みを与え、世界中の人間に永遠の喜びを遣わす。「真偽」を問うという法廷の役割も忘れ、居並ぶ人々は、プルート夫人の魅力に酔いしれ、われ先に彼女の恩恵を受けようと走り寄る。

 

やがて、法廷でプルートの影響力(核廃棄物の放射線)が消えるまでに10万年以上かかるという情報が現れ、法廷内の人間がどよめきだつ。しかし、彼女の恩恵を諦められず、迷っている間に人間たちの体が、放射線の影響で崩れ腐ってゆく。

 

「雨の夜―ウラノス伯爵―」

何処かで開催されたセレブたちのサロン。新しい客が招かれる。彼の名前はウラノス伯爵。彼がサロンを訪れる事を知り、一人のお客が叫びだす。「私はいや」「かれにあいたくない」すると、他の客が「いずれは、会わなければならないんでしょう?」と言う。参加者の期待と不安の入り混じる中、最後の客人、ウラノス伯爵が部屋の扉を開ける。

 

ウラノス伯爵を歓迎する者、毛嫌いする者、抹殺しようとする者。同じ部屋に集った人々は、ウラノス伯爵に、各々、違った感情を抱く。しかし、共通している点は、誰もが彼を見過ごす事はできない。皆が彼の魅力に惹きつけられる。特に彼の富をもたらす力は絶大で、だれしもが彼と付き合う事のリスクを忘れてしまう程だった。

 

豊かな生活とそれを得る事のリスクを目の当たりにしながらも、豊かさを捨てようとする者もいれば、いずれ来るリスクの回収を忘れようとする者、考える事を辞めてしまう者、放射能という夢の力を目の前に戸惑いながらも、結局は、何も決められず、今までの生活を繰り返す事しかできない人間の性を描いた短編です。

 

「サロメ20XX年」

新約聖書をオスカー=ワイルドが戯曲化した有名な作品「サロメ」ですが、それを舞台を現代のナイトクラブ、サロメをナイトクラブで働くショーガールとして表現。上の二つの物語と同じ、核反応物質の擬人化ですが、面白さと軽い寒気を感じる良い作品です。

「なのはな(「幻想」銀河鉄道の夜)」

現代版では福島県の話が多い、作品集では珍しく岩手県のお話です。

津波と震災で祖母を亡くした女の子が、夢の中で乗った銀河鉄道で祖母と再会。逝く者と残された者との命のリレーを思わせる作品です。

 

「福島ドライブ」

セリフはありません。甲斐よしひろさんの「立川ドライブ」の歌詞とともに、絵だけの駒が続きます。これをどう捉えるかは、読んだ人によると思いますが、私は、被災地に住んでいる方々だけではなく、被災地を故郷として都会で頑張っている人たちの、故郷の惨状を知った悲しさや孤独感、故郷が消えてしまう事への恐れのような物を感じました。他の方々は、どのように感じられるのでしょうか?

 

 

 

 

 

 

 

大きな災害に見舞われると、人は、その意味を考えます。何故、こんな目にあったのか、私達の何が間違っていたのか、そして、これから私達はどう生きるべきなのか。恐らく、それらの答えは、その時代に生きた人の数だけあるのだと思います

 

しかし、そうした記憶も、いつかは風化します。直接の被害者でもなければ、毎日、耳に入るニュースの数々に、その時、考えた事や、過去の痛みなどは、ゆっくりと薄らいでいってしまいます。

 

記憶が薄らぐ事自体は、けっして悪い事ではありません。むしろ、健康的な事だと言ってもいいかもしれません。しかし、生きていれば、どうしても、忘れてはいけない事、忘れたくない事というものはでてきます。そんな時、忘れない工夫が必要になってくるのです。

 

歴史の年表で後世に伝えられる事に限りがあります。その時、その場で生きていた人が何を考えていたのか、未来にどんな不安を抱いていたのかという事までも、伝える事は難しいかもしれません。そんな場合に、人間が生み出した忘れない工夫の一つが「寓話」なのかもしれません。

 

いつか、遥か未来、全ての記録が消え、人々が具体的な事実を忘れた頃になっても、誰かが、この本を読んで、便利さと引き換えに、人は何を失ってゆくのか。生きてゆく為に「便利である事」と「必要な事」そして「失ってはならない事」が、それぞれ何なのかといった事を、再び、考える事ができれば素晴らしい事だと思います。


シグルイ

原作は南条範夫先生、作画は「覚悟のすすめ」で有名な山口貴由先生です。

 

南条範夫先生が書かれた原作は「駿河城御前試合」という時代小説で、題名の駿河城御前試合に出る十一組の因縁ある対戦者同志の物語の短編集で、「シグルイ」はその中の「無明逆流がれ」をもとに膨らませた作品です。

 

原作の駿河城御前試合を私は読んではいないのですが、35ページ程の短編とのことなので、その内容は、かなり作画の山口貴由先生の創作が加えられていると思われます。

しかし、私が読んで気に入ったのは、山口貴由先生の手のはいった「シグルイ」なので、特に問題はございません。

 

あらすじは、そんなに複雑ではなく、駿河城御前試合で行われる、十一組の内のひとつの対戦を取り上げ、その対戦者同志の出会いから、対戦にいたるまでの経緯を描いてゆくという構成です。

ここで、ひとつ注釈なのですが、この駿河城御前試合というのは色々な経緯がありまして、大前提として、ルールが真剣での命のやり取りということになっています。本来、木刀を使って、さらにマジ打撃ご法度な御前試合で、そんなファンキーなルールが適用された経緯も作品内で描かれているので、お読みの際は切迫した作中の世界観をお楽しみください。

 

…とにもかくにも、藩のお偉いさんも、そんな狂った試合は、ふつうの人間にはさせられません。しかし、その理由は、試合者の安全がどうとかいう物であろうはずがありません。本当の理由は、下手な人間を選んでしまい、無様な試合をやられた日には、主催のクレイジー殿様の逆鱗にふれて、自分たちまで、お手打ちにされてしまうからというものです。

 

そんな理由から、藩のお偉いさんは、家中でも遺恨のある者同志、仇討願いが届けられている者同志等、今にも一触即発しそうな人間同志を集めて戦わせることにします。

ようは、お殿様の我儘と、藩内の火種、両方をなんとかしようとしたというのもあるのでしょう。

 

そういった経緯により、御前試合に参加する十一組、二十二人、全員が因縁浅からぬ者同士の公開泥沼大会となってしまったのです。

 

勿論「シグルイ」の主人公、藤木源之助、対戦相手、伊良子清玄も元は「虎眼流」という剣術流派の同門であり、かつては龍虎と並び称され、「どちらかが流派を継ぐことは間違いない」とまで言われた剣術家でした。

 

物語の冒頭、御前試合で二人が向かい合った時、藤木源之助は隻腕の剣士、伊良子清玄は盲目、跛足(足を引きずっている人ね)の剣士。

 

だが、次の場面で、描かれた昔の二人…。

その頃、藤木の胴着の袖からのぞいた逞しい二本の腕は、木刀をしっかりと握り、伊良子清玄は瞳に強い光を宿し、鍛え上げられた脚力で天性の俊敏さを発揮していた。

互いの技を高め合う二人が、なぜ傷だらけの体で御前試合に臨むこととなったのか…。

 

15巻という長い話ですが、退屈することなく最後まで見る事ができました。同じ場所で同じ分野を学んでいた者同士が、公衆の面前で殺し合う経緯や、二人の関係の変化、心理描写、二人を取り巻く環境の変化なんかを丹念に描いていったら、15巻くらいは平気でいってしまうのでしょうね。

 

特に見所の一つとしていえるのが、二人の師匠である岩本虎眼先生の狂い方です。漫画誌に残るいかれっぷりといってもよいのではないでしょうか。本編の中で、多くの時間、虎眼先生は心神喪失状態です。その描き方は、一見すると認知症が発症したようにも見えますが、また、一見すると全く別の状態のようにも見えます。さらに、質が悪い事に、この虎眼先生、残酷ぶりと武術の腕と欲望はそのままに自分を見失っています。その為、道場内で誰かが殺された場合は、必ず最初に疑われるのが道場主の虎眼先生という有様です。そして、この虎眼先生、常に意識が飛んでいるわけではなく、時々、冷静な状態に戻るのですが、始末の悪い事に、冷静に戻った時の方が、遥かに残酷で、狂っているという事です。この点だけでも、一読の価値はあります。

 

また、作画の山口貴由先生の絵が、少年漫画のタッチから、作品の世界が深くなってゆくにつれ劇画タッチに変わってゆくのも見物です。

山口先生は、昔、週刊チャンピオンで「覚悟のススメ」や「悟空道」などを描いていた作家さんで、その世界観やキャラに対する熱量が半端ではなく、読むうち引き込まれていったのを憶えています。

そうした想像力が良い方向で、原作に描かれていない部分の「無明逆流がれ」を組み立て、「シグルイ」という形になったのだなと、妙に納得させられてしまいます。

興味のある方は是非、ご一読ください。

 

 

 


春の夢

いいですね。泣く子も黙る24年組、天下の萩尾望都先生の作品です。

こちらは、数十年ぶりに描かれた「ポーの一族」の続編です。

萩尾望都先生は、インタヴューで、昔のような線はもう書けないという仰っておりました。確かに、少女コミック連載時の「ポーの一族」の線の細やかさとは、ちょっと違ってはいますね。人によっては、その違いに苦手意識を持つ人もいるという話も聞きますが、私の場合、読み始めこそ、不思議な感じはしましたが、すぐに慣れて、物語の中に引き込まれてゆきました。

 

私としては、萩尾望都先生の繊細な線は勿論のことなのですが、ストリーテーリングの力の方に強く惹かれておりましたので、全く問題ないんですけどね。

 

調べてみたら「ポーの一族」の連載が終了したのが、1976年、「春の夢」が連載されたのが2016年から2017年間の事なので、40年ぶりの続編という事になります。これで、同じ線が描けたら化け物です。

 

「ポーの一族」自体が古い作品なので読んだ事がない方もいらっしゃると思いますので、ちょこっと「ポーの一族」の粗筋を書きます。平たく言っちゃいますと、ヴァンパイア物ですね。

 

主人公はエドガーというヴァンパイアの少年です(作中ではヴァンパネラと呼ばれています)他のヴァンパイア物と同じように、彼等はヴァンパイアになった時点で年を取らなくなります。だから、多くの者は、ヴァンパイア同士で村をつくり住みつき、一年に一度、人をさらってお祭りのように「気」を吸ったりします。それ以外は、ほとんどの時間を寝て過ごし、主な仕事といえば、「気」を補給する為の薔薇の花を育てたりするくらいです。薔薇の「気」というのが主食で、人間の「気」はイベント食と思って頂ければ良いかと思います。

 

そういった生活に馴染めない者や、何かしらの理由で村にいられなくなったヴァンパネラは、流れ者として旅をします。時に、年齢の違うヴァンパネラ同士でチームを作るわけなのですが、その際に家族の形をとります。また、家族の形をとりながら暮らしても、一つの土地に定住する事はありません。いくら家族が怪しまれにくいとはいっても、誰も歳をとらないし、死なない家族なんていうものは、怪しすぎます。

 

もしも、人間ではないという事がばれてしまえば、杭で胸を刺されて殺されてしまいます。ヴァンパネラは、不死身ではあっても、けっして無敵ではないのです。実際、エドガー達の住んでいた村は、近くの村民によって、滅ぼされてしまいました。そんな理由もあって、エドガー達は、用心しすぎても足りないという気持ちを持ち、旅をしているのです。

 

 そんな用心深い旅を続けているエドガー達ですが、旅先の小さな港町でヴァンパネラである事が発覚してしまい、エドガー以外のヴァンパネラは、皆殺しとなってしまいました。その後、エドガーは、騒動の中で、新しい同胞となった「アラン」という少年と二人で旅をする事になります。永遠の少年のまま…。

 

「春の夢」は、その後の「エドガー」と「アラン」の話です。

ストーリーは、こんな感じです。

1944年第二世界大戦中のイギリス、ウェールズ地方、アングルシー島にいきついたエドガーとアランは、ある少女に出会います。小さな弟を連れた少女は、まるで、はぐれた小鳥のような目をしていました。道すがら見かけただけの少女なのに、何故かエドガーの心の中には、少女の事が、いつまでも引っ掛かっていました。

 

少女の名前は「ブランカ」、弟の名前は「ノア」二人は、ドイツのホロコースト(ユダヤ人の大量虐殺)を逃れ、兄弟二人だけでイギリスの親戚の家に身を寄せていました。もしも、ドイツが侵攻してきた時の事を考え、両親とはオランダで別れて、兄弟二人だけ親戚の助けを借り、イギリスへと逃れてきたのです。それはブランカが11歳の頃の出来事で、現在の彼女は16歳となりました。

 

当時、イギリスとドイツは戦争中でしたので、イギリスでは敵国の人間と敵視され、ドイツではユダヤ人として差別され、身の置き所もなく、頼るべき両親は安否も分からず、彼女は不安な気持ちを押し殺しながら毎日を過ごしていました。両親と再会した時まで、弟のノアを守るのが自分の役目なのだと、自分自身に言い聞かせながら、再び、両親と暮らせる事だけを希望にいきる。ブランカはそんな少女でした。

 

ひょんな事から、エドガーは彼女の家を知り、二人は家を行き来する間柄になります。エドガーがビアンカを気になるように、しだいに、ブランカもエドガーの年齢とはそぐわない洗練された身の振る舞い、落ち着き、そして、優しい気遣いに惹かれてゆくようになります。年齢にそぐわない環境で生きる事を余儀なくされた少女が見つけた、年相応の恋でした。

 

そんな中、兼ねてより、長く患っていた、ビアンカを引き取っていた親戚のオットマー氏が亡くなりました。エドガーとは別系統のヴァンパネラの一族も、オットマー氏の死に関わり、物語は一気に動き出します。

 

ラストは書きませんが、読み終わった後に、心に残る切なさと、人間としての感情を残しながらも、永遠にも近い時を生きなければならないヴァンパネラ達の哀しさを想像し、物思いに耽ってしまいました。

 

是非、エドガー達の生きる永い時間の一片を、一緒に垣間見る事ができれば嬉しく思います。

 


プロフィール

manga2525

Author:manga2525
漫画、映画、アニメ、ドラマ大好きです。
すっかりメディアにはまり、きっと、その筋の業界の方には、
私はなかなか良いお客さんなのだと思います。
でも、いいんです。よくよく分かっている事ですので、…というわけで、一人でテレビや本みてほくそ笑んでいるのもなんなので、人前で語ってみようと思い始めたブログです。

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